シャッタード・スプライト
ボクは、以前の『ぼく』のことを、あまりよく覚えていない。
ちぎれてかすれた記憶は、話したところで、きっと誰にもわかってはもらえない。
『ぼく』には、恋人がいた。
ごつごつとした、やさしい大きな手と、目を見張るほど美しいあおいろの瞳を持ったその人のことを、『ぼく』は本当に好いていたし、できればずっといっしょにいたいと、思っていた。
それは『ぼく』が、『ぼく』のポケモンたちに向ける愛情とは、全く違った意味で。
だから、なのかもしれない。
どこか悲壮な顔で、ボクの手を掴むこの人に――こんなにも、惹かれるのは。
泣きそうなほど、歪んだ瞳の中にたたえられたあおいろに、とらわれて、とらわれて。
Shattered Sprite
目蓋が重い。体中がだるいし、あらぬところが痛い。頭から抱え込まれて、息がしにくい。
初めてデンジさんと身体を重ねた後のボクの目覚めは、そんな感じだった。
(……さいあくだ)
どうしてこうなっちゃったんだろう。よくわからない。
今の時間はいつごろなんだろう。時計を確認したいけど、がっしりと身体を固定されていて、身じろぎ一つままならない。
周りが明るい、ような気がするから、もう朝なんだろうか。ここに来たのが夕方ごろだったから、一晩たっているのかもしれない。
昨日はたまたまナギサの近くでポケモンのデータを取っていて、それでデンジさんに会って、家に招かれて。
それからずっと、普通に話していただけ、だったと思う。少なくとも、ボクはそうだった。
それなのに。
「……なんでこうなったんだろう」
デンジさんに拘束されていなかったら、ボクは顔を覆っていたかもしれない。
恥ずかしくて、死にそうだった。
話の途中で、デンジさんに肩をつかまれて。
顎を持ち上げられて、気がついたら、キスをされていた。
ボクは咄嗟に目を閉じていた。よく考えたら、なんでそのときに抵抗しないですんなりそれを受け入れてしまったのか。
いや、それどころか。
遠い記憶をなぞるように、積極的にそれに応えてしまっていた。
ボクの舌がデンジさんの舌に絡んだ瞬間、びくり、と、ボクを捕らえるデンジさんの手が震えたけれど、引かれようとするその上に自分の手を重ねて。
もう片方の腕で、デンジさんの頭を抱え込んだ。
逃げられたくない。そう、思って。
デンジさんはしばらく戸惑っていたようだったけれど、ボクが呼びかけるように、驚いて引っ込んだ舌を追いかけて、彼のつるつるした歯をなぞると、すぐに再び深いキスが返された。
ぴちゃぴちゃと、ボクたちの関係にそぐわない、濡れた音が響く。
デンジさんは一度ボクを引き剥がして、青い目を炎のように揺らして、尋ねた。
「きみは、……こういうことに、慣れているのか?」
しばらくボクは、その問いに、返事が出来なかった。
(だってあなたが教えたのに)
口をつきかけたその言葉をどうにか呑み込んで、黙ってかぶりを振る。
『ぼく』の恋人が、デンジさんなのかどうか、ボクにはわからない。うつくしい青色の瞳は同じだけれど、でも、それだけで同じ人とは限らない。
そのままじっと、デンジさんを見つめる。彼はくしゃりと、端正なその顔を歪めた。
「オレの立場で、きみのようなこどもに、こんなことを言うべきではないとわかっている。でも」
その先は、なんとなく、予想できた。
「きみを抱きたい。……たしかめたいんだ」
その瞳の中に、映っているのが誰なのか。
わからないまま、ボクは、首を縦に振った。
***
ボクの存在は、ヒカリのためにある。
ヒカリの手助けをして、ヒカリの行動のきっかけを作って、ヒカリに追い抜かれていく。
それが『ボク』だ。
ヒカリは無邪気に笑い、時に怒り、コンテストを楽しみ、バトルに不敵な笑みを浮かべる。
選ばれたトレーナー。選んだ、トレーナー。
選ばれなかった、選ばなかったボクは、そんな彼女を静かに見つめる。
愛情と、哀れみと。彼女はまるで、もう一人の自分だ。
***
「コウキ」
その声が、どっちを呼んでいるのか、ボクにはわからない。
いつもより少し低い声で耳に落とされた囁きは、ボクの胸の奥まで沈む。
「きみだけど、きみじゃないのか」
ボクの顔を覗き込み、デンジさんはどこか落胆したように呟いた。
ボクの背中をなぞる手は、どこか懐かしい。けれど、彼が探しているだろう傷跡は、ボクのそこにはないのだ。
未熟だった天才が負った傷を、ボクは持っていない。
ボクは黙って頷く。デンジさんは、ただ、ボクに触れる。
あなただけど、あなたじゃないのか。同じことばをボクは、彼に返したい。
最初に『彼』が『ぼく』に興味を持ったきっかけは、『ぼく』とのバトルだった。
ヒカリと、かつての『ぼく』とのバトルは、驚くほどよく似ている。今のボクでは、理解できない世界。
それなのに彼が手をのばしたのは、彼女ではなく、ボクだった。
姿かたちは、確かに似ているかもしれない。だけど、それだけだった。
ボクは、『ぼく』じゃない。明確に、違う人間なのだ。消えてしまった『ぼく』は、もうどこにもいない。
『ぼく』のように、バトルに打ち込むこともなければ、コンテストに参加することもない。
観戦することは、もちろん好きだし、ポケモンたちを愛することでは決して負けてはいないけれど。
それでもたぶん、デンジさんがなぞっている『ぼく』には、ボクはなれない。
ボクを抱くことで、デンジさんが得るものは、何かあったのだろうか。
「あなたは、本当に、ばかなひとだ」
びくり、と、ボクを抱え込むデンジさんの腕が震えた。
ばかなのは、ボクも同じだけれど。
「恋人を捨ててまで、現実を拒んだ相手を、何でそんなにずっと好きなのか、ボクにはわからない」
それが、かつての天才の末路だった。
優しく、情の強かった彼は、原因不明のままで仲間を奪われていくことに耐えられず、全てをなかったことにしてしまった。
恋人の目の前で。
記憶の中の彼と同じ、澄んだあおいろの瞳を持ったデンジさんは、辛そうに顔を歪める。見ていられなくて、ボクは俯いた。卑怯だとわかってはいたけれど。
「……あいつと同じ顔で、そんなことを言うな」
「生まれつきの顔に、文句をつけられても困ります」
デンジさんの肩は震えている。ボクは、その顔を見上げる勇気は出ない。
「いい機会じゃないですか。あなたなら、不自由しないでしょう。綺麗な女の人も、かわいい恋人にも」
デンジさんは変わった人だけれど、顔は整っているし、性格だって悪くはない。
わざわざボクみたいな子ども、しかも男を選ばなくたって、それこそ、隣に立ちたい相手は、いくらでもいるはずだ。
ましてやボクは、彼の求めた相手とは別人だ。以前のように、隠しきれない罪悪感を押し殺してまで、執着する必要がない。
それでもオレは、と、小さな声が聞こえた。それを無視して、大人の身体を押し返すと、あっさりと離れていく。
泣いているのかもしれない、と思った。けれどボクには、もうどうしてあげることもできない。
ボクは『ぼく』じゃない。
(あなたは自由になるべきだ)
こんな、酷い子供じゃなくて。もっと相応しい誰かと。
ゆるやかな拘束を抜け出して、ふらつく身体で、あたりに散乱した服を拾って身につけた。
体がべたべたした感じとかはないから、意識を失ったボクの代わりに、たぶんデンジさんがきれいにしてくれたんだろうと思う。
そうして部屋を立ち去ろうとしたとき、デンジさんが、ベッドの中から、尋ねてきた。
「どうしてきみはオレに抱かれた?」
ボクは背中を向けたまま、答えた。
「たぶん、見せるのが、一番早いと思ったから」
そうして彼の返事も待たずに、ボクは逃げるようにその場所を去った。
***
『ぼく』は逃げ出して、全てをヒカリに押し付けて、今は『ボク』がここにいる。
本当なら失くすはずの記憶も、何故か引きずったままで。
必死に『ぼく』を呼び戻そうとしたあの人を傷つけた、だからこれは罰なんだろう。
青い空の向こう側、さらに青く染まる世界を、ヒカリはいつか望むだろうか。
そうならなければいいと願う。
***
デンジさんと連絡を取らなくなってから、しばらくたった。
もともと彼は忙しい人だ。探さなければ、出会うこともない。
気がつくと彼のことを考えている自分がいやになるけれど、その回数も、少しずつ減りつつある。
(……たぶん)
未練がましさに我ながらあきれて、溜息をつくボクの隣で、野生ポケモンの動向を探っていたピッピが、ぴくん、と、その耳を動かした。
「どうしたの?」
「ぴぃい」
彼女が指差す方向へ振り向く。ボクは彼女ほど夜目がきかないから、見えるのはうっそうとした、闇に沈む草むらだけだ。
ファイトエリアのポケモンは、シンオウ本土とはまた少し異なっている。今日は夜に出てくるポケモンの種類を調べようと思って、こうして木陰に息を潜めている訳だけれど。
「誰かいるのか?」
声を落として尋ねる。ピッピはこくん、と頷き、不思議そうな顔をして、闇の向こうを見つめている。
彼女の様子からすると、それほど危ない相手ではないようだけれど、用心するに越したことはない。ボクは緊張に体を強張らせ、その先を見つめた。
やがて、がさがさと、何か大きな生き物が近づいてくる音がして。
「……コウキ、いるか?」
その声に、息を呑んだ。
どうしよう、と、迷う間に、デンジさんが連れたポケモンが、ボクの姿を捕捉したらしい。低い唸り声と、それに答える声が、どんどん近づいてくる。
「コウキ」
その声に縫いとめられたみたいに、動けなくなったボクを知ってか知らずか。結局、ボクの目でも姿を確認できる距離まで、デンジさんがやってくるのを、ただ呆然と見ていた。
「よかった」
ほっとしたように、彼は言う。それはほとんどひとりごとみたいなものに違いなかったけれど、夜の草原のざわめきは、それを消すほどには大きくなかった。
「きみを探していた」
ボクは瞬きして、そして首をかしげた。
「何か、あったんですか?」
彼がわざわざボクを探しに来るような用事、というのが思いつかない。そもそも、今ここにボクがいるというのを知っているのは、家族とナナカマド博士くらいだ。
まさか、博士に何かあったんだろうか。ぞくりとするボクに、デンジさんはかぶりを振った。
「いや、オレの個人的な用事だ」
少しだけほっとしたが、個人的な用事、と、聞いて、今度は別の嫌な予感がした。
ボクの気持ちを知ってか知らずか、デンジさんは、淡々とした声で続ける。今日は月がないけれど、晴れた夜だから、星明りでぼんやりとだけ、その輪郭が見えた。
「考えたんだ、あれから。どうしてオレがここにいるのかとか、きみにも記憶が残っている理由だとか」
前と違って、やけに力強い口調だった。なにか、自信みたいなものが、みなぎっている。
「オレが今のきみをどう思っているのかとか、きみのオレに対する行動とか、いろいろ考えて。……考えるのが、面倒になった」
頭の中で、ガンガンと警鐘が鳴る。その先を聞くなと、かつての『ぼく』が、叫んでいる。
「きみの行動範囲は、シンオウ全土に広がっている。なのに、オレと出会ってからあの日までの間、きみは何故か、よくオレの目の前に現れた。……少し考えればわかることだったのに、オレはそれにも気付いてなかった」
けれど、オレときみとの関わりを知って、それを偶然だと思うほど、オレはばかでもおひとよしでもない。
彼は言い放った。
「きみはオレを拒否しながら、それでもオレを求めていたんだ。違うか」
鋭く切り込まれて、もう、耐えていられなかった。
ボクは踵を返して逃げ出した。正確には、逃げ出そうとした。
「レントラー」
進もうとするボクの目の前に、ぴしゃり、とまばゆい雷電が走る。同時に、悲鳴が聞こえた。
「ぴぃい!」
「ピッピ!?」
しまった、と、背筋を冷やしてももう遅い。振り返れば、レントラーの前足の下に、ボクに置いていかれかけたピッピが、押さえつけられていた。
「また逃げるのか?」
デンジさんの声は冷たかった。
夜露に濡れた葉を踏んで、彼は距離を詰める。ボクは動けずに、それを見ていた。
デンジさんはほとんど息のかかりそうな距離に顔を近づけてきた。青いはずの瞳は、暗闇の中で、しっとりと黒く染まって見える。
「この間の、ああいうのを、やり逃げって言うんだが」
「やっ……!?」
ボクは水から釣り上げられたコイキングみたいに、口をぱくぱくさせるしかなかった。何てこと言うんだ。
睨みつけた所で、彼の態度は変わらない。淡々とした声は続く。
「きみはトレーナーだって、オレに言ったな。それなら、バトルの相手に、背中は見せられないはずだろう?」
「……ボクは、あなたとバトルしてるわけじゃない!」
「似たようなものだろ」
デンジさんは暴れるボクの体を、あっさりと抱きこんだ。とくとくと、心臓の音が、伝わる。
それが、いつもより少しだけ早い、ということも、ボクは知っていて、泣きそうになった。
「いいんだ、別に。きみがバトルできなくたって、オレのことを嫌いだって」
「ちが、」
「違うならいい。……きみが、オレの隣で、笑っていれば、もうそれでいい」
その声の真剣さに、ボクは、凍りつくしかなかった。
覆いかぶさるようにボクを捕らえるデンジさんが、まるで、ボクに縋りついているようでもあって。
今更になってやっと、このやさしいひとを――そう、わかっていたひとを、どれほど傷つけていたか、見せ付けられた気がした。
「……ごめんなさい」
ぎゅっと押さえつけられた胸元に、額を摺り寄せた。優しい手に頭を撫でられ、泣きそうになる。
「さっきは攻撃させて、悪かったな。怖かっただろう」
頭の上から降る声には、先ほどまでの緊張はもうない。ボクは黙ったまま、首を横に振った。
デンジさんの身体はあたたかい。あのときも、そうだった。
だから、かもしれない。
全部忘れて、なかったことにしようとしても、どうしても、この人を忘れられなかった。
ボクは『ぼく』じゃないのに、一度会ってしまえば、惹かれる自分を止められなかった。
ほんとうに、ばかみたいだ。
少しだけ、力を抜いて、デンジさんに身体を預けた。そうして、すきです、と、囁くと、知ってる、と、静かな返事が落ちる。
なくしてしまったものはもう戻らないけれど、この人さえいてくれるなら、もう他に何もいらないと思った。
そうして夜の闇は、全てを呑み込んで、消えていく。
朝のひかり、空の青さに、追い立てられるみたいにして。