エレクトリカル・ブレイクダウン
いつからからかはわからない。
その記憶は、オレの意識の奥深くに、刻み込まれていた。
魂の奥深くまで抉られて傷つけられたような、耐え難い痛みをともなうそれは、けれど、それ以上に、酷く甘美で。
オレが求めて止まないその存在は、まだ幼い少年の姿をしていた。
彼はやわらかな微笑を浮かべて、オレへとその細い腕を差し伸べる。
オレの名を呼び、オレの手を取り、そうして嬉しそうにこちらを見上げる。
それだけでオレの胸は軋む。あたたかく広がる歓喜と、そして――こらえようもない、喪失感に。
少年はオレの腕を引き、ベッドへといざなう。幼い身体をオレに委ねて、安心しきったように、息をつく。
そんな彼の、白い手首を捉え、肩を抱く。みずみずしい、甘い唇を貪れば、つたない動きで、必死に応えようとする。
愛しさに背を押されるように、そのまろい肩を白いシーツに押し付けて、薄く、やわらかな肌を探る。
少年は抵抗もせず、期待さえ込めたまなざしで、じっとこちらを見上げる。腕の皮膚を辿る指先は、熱い。
耐え切れず彼の名を呼べば、うれしそうに顔が綻ぶ。甘ったるい空気など知らぬ気なあどけない様子は、けれど逆に、なんとも言えない色香をまとった。
こんな関係が普通ではないことは、わかっていた。けれど、それ以上に、オレと少年は、そうすることが、自然な関係だったのだ。
驚くほど、オレは、その状況を抵抗なく……いやむしろ、自分から進んで、受け入れている。
それなのに。
今のオレは、彼の姿を知らない。
霞みがかったようにぼやけて、その顔立ちも、声すらも。
たったひとつ、印象に残っているのは、うつくしいグレイの瞳。ただ、それだけで。
今のオレは、渇いている。
焦がれるまなざしに出会えないで、ただ、その影だけを探して。
近しい友人にさえ明かせないこの渇望は、いつか、癒えるのだろうか。
Electrical breakdown
オレがヒカリの別荘を訪れることは、あまりない。
そもそも家主が、ここに滞在することが少ない。この空間の豪華すぎる雰囲気に慣れない、と、本人は言っていた。
勿体無いような気もするが、その気持ちはわからなくもない。オレでも少し気後れするこの空間を作り上げたのも、他ならぬ彼女だと思えば、それも不思議な気持ちもするが。
彼女に会おうと思えば、ここに来るよりむしろ、しょうぶどころに顔を出したほうが早かった。バトルをするにも、そのほうがずっと、都合がいい。
だから、ことあるごとに秘密基地代わりにでも利用しようとするオーバを適当に宥めたり、約束をすっぽかされたりする他は、来る理由がなかった。
その日、オレがその場所を訪れたのはただの気まぐれだった。
それが全てを変えるとも知らずに。
やさしい音楽が、薄暗い午後の廊下を、ほんのりと満たしている。やわらかく差し込む光と影のコントラスト。一瞬の既視感に、くらりとした。
玄関を入ってすぐ右手にある応接間が、どうやら音源のようだった。
ノックをして、扉を開く。少し間を置いて飛び込んできたその声に、ぞくりと背筋が泡だった。
「ヒカリ?」
青いジャケットのその少年は、佇んでいたオーディオセットの前で、こちらに振り返った。
その瞳が、大きく見開かれる。オレは思わず、息を呑んだ。
硬質な、鋼のように艶やかなグレイの瞳。どこかヒカリに似ているけれど、何かが、全く違う。
(こいつだ)
オレはほとんど、直感的に、その対象を逃がすまいと行動していた。
「え」
少年は、目を白黒させながら、オレの顔と、捕らえられた腕を見比べている。
非常に気まずい状況、だろう。向こうにとっては。
他人事のように思いながら、けれど、彼を掴んだ手は離さずに、オレは真っ直ぐに、その少年を見下ろしていた。
「ええと、なん、ですか?」
不安げに揺れる瞳は、見れば見るほど、あの、記憶の中の少年と同じだ。
「きみの名前は?」
だからこそ、聞かずには、いられなかった。
少年は、きょとんとして、こちらを見つめる。
「コウキです、フタバタウンの」
「コウキ」
口の中で転がすように、オレはその名前を味わった。聞いたことのない、けれど懐かしい響き。
怪訝そうな顔をしてこちらを窺う少年に気付いて、オレは名乗った。
「デンジだ。ナギサシティで、ジムリーダーをしている」
「知ってます」
彼はことのほか、落ち着き払った様子で頷いた。
「ボクも、一応、トレーナーなので」
***
最近おかしいんです、と、彼はうつむきがちに言った。
「預かりシステムに、エラーが起きているらしくて」
ボックスに預けておいたポケモンが時々いなくなるのだ、という。
管理者に連絡しても、理由がわからないらしい。
彼は心底、彼のポケモンを愛している。聞いてみれば、旅を始めてから、ずっといっしょにいたポケモンのうちの一匹も、いつのまにかいなくなってしまったらしい。
さぞかし心配だろう。思いつめたその様子に、いつか戻ってくるさ、などと、軽々しいこともいえない。
どう慰めていいのかもわからず、オレはただ、震える身体を、抱いてやることしか出来なかった。
***
オレとコウキは、それから、時々会うようになった。といっても、自分から連絡を取り合って、待ち合わせる、ということはない。
ナナカマド博士の手伝いをして、シンオウ中を飛び回っているコウキが、たまたま、オレのいるときに、オレのいる場所に出くわすことが増えたのだ。
オレはこれで、行動範囲は狭いほうではない。ジムリーダーとして、あちらこちらに、出向かなければならない用事がある。
どちらかというと挑戦者の少ないジムリーダーであるせいか、リーグからの依頼で、トレーナー向けのセミナーに呼び出されるときなどは、便利屋扱いをされている気がしてならない。
それも以前はメンドウだったから、何くれとなく理由をつけてサボっていた。それを少しだけ控えるようになったのも、コウキと会える確率が、ナギサにじっとしているよりも高いからだ。
あちらこちら動き回る生活になったので、まるで旅をしていた頃のようだ、とたまに懐かしくなる。オレのポケモンたちも、何となく嬉しそうだから、まあ、結果的にはよかったのかもしれない。
顔を知り、声を知り、お互いのことも少し話すようになって。
オレは何故か、不思議なくらいに、彼に心を許すようになった。
コウキはたしかに、あの少年に似ていた。けれど、彼という人物を知れば知るほど、記憶の中の少年とは、重ならなくなっていった。
彼が実は少し口が悪いとか、案外面倒見がいいことや、ひたむきで一生懸命なところも、同時にどんどん知っていった。
月の光を愛するピッピと一緒に、夜の草むらの中で寝転んでいた彼を見つけたときには、心底肝が冷えたりもした。
オレのレントラーを見て怯えるモウカザルを宥めているのを、苦笑しながら眺めていたこともあった。
図鑑の埋まり具合を見比べて、ヒカリには全然敵わないんですけど、と、気負った様子もなく、けれどどこか寂しげに笑うのも、知っている。
記憶の中のこと、とは関係なく。
オレは、いつのまにか、彼という人間に、惹かれはじめていた。
今日は、珍しくナギサで会えた。少し浮かれた頭で、せっかくだからと、自宅へと招く。
彼は面白いほどに恐縮して、けれど、断ることはなかった。
「そんなに遠慮しなくてもいいのに」
「そういうわけには」
コウキにとってはどうも、ジムの奥にあるオレの住居まで、ただ会いに来るというのは、敷居が高いらしい。
少し物足りなく思う気持ちもあるが、彼の言い分ももっともだった。
彼ならば、挑戦者としてではなく、ただの客としてでも、歓迎するのに、と。その一言は、言い出せなかった。
「バトルがどうしても、苦手なんです。つい考えすぎてしまって」
コウキは、トレーナーとしては、あまり強いほうではない。
そこも、記憶の中の少年とは違う。彼はもっと、圧倒的だった。すべてが。
「もっと、強くなりたいって思うこともあります。でも、たぶんボクは、ヒカリやジュンみたいにはなれないから」
そういって、どこか、諦めたように目を伏せる。
コウキは、たぶん、頭がまわりすぎるのだろう。反射とか、勘とか、そういった方面のセンスも足りない。そしてそれらは、経験だけで何とかなるものではなかった。
あの少年は、天性のそれを持っていた。あまり好きな言葉ではないが、それこそ、才能というのだろう。
わかってはいた。けれど、歯がゆい気持ちが、じわ、と胸奥を浸す。
「それでいいのか?」
尋ねると、コウキはこくりと頷いた。
「ボクは、ボクです。比べたって、他の人になれるわけじゃないし」
彼も多分、オレと、同じ結論に至ってしまっているのだろう。その様子に、思うところがないわけではないけれど、オレにはどうすることもできない。
黙って頭をなでると、目を細めて、くすぐったそうにする。まだ、このままでいい。何度目か、頭の中で、自分自身に言い聞かせた。
コウキは少し不思議そうな顔をして、そんなオレを見上げる。
「デンジさん、こんなボクの話なんか、聞いて楽しいですか?」
「楽しいが、何でだ?」
「だってヒカリから、聞いてたのと随分違って」
その言いように、なんだか嫌な感じがした。
あの少女はオレのことを、他所でどんな風に話していたんだろうか。尋ねて、その返事に、脱力した。
「バトルと改造が好きで、たぶんバトルと改造とポケモンのことしか考えてないひとって。あと強いトレーナーが好き」
なんともヒカリらしい言い草だった。苦笑するしかない。
ヒカリとコウキは、ほんの少しだけ似ている。あの少年とも。
こまったひとですね。遠い残響が、ふと甦る。
「……おおむね間違ってはないが、それだけみたいに言われるのは心外だな」
「あ、ごめんなさい」
悪びれた様子もなく、彼はあっさりと謝った。
「それで、きみには?」
コウキはぱちぱちと瞬きしてから、ボクからですか、と困ったように眉を寄せた。
「普通のトレーナーさん、みたいな、気がします」
オレは頷き、その表情の奥を探ろうとした。
彼といると、胸が痛む。それなのにどこか、安心する。まるで、何かが満たされたように。
そんな、奇妙な感覚を覚えているのは、果たしてオレだけなんだろうか。
確かめずには、いられなかった。
オレはコウキが好きなのだと。記憶の中の、鈍色の幻影ではなく――
「それだけ?」
気がつけば、そんな言葉を、オレは口に出していた。
「え?」
コウキはきょとんとしている。今ならまだ、何でもない、と、誤魔化すのは、簡単なことだった。
けれどオレはそうしなかった。
記憶の中の少年と、コウキが重なる。オレに微笑みかけて、オレを求める幻影は、いとも容易くオレを支配した。
(コウキに触れたい)
もっと深く。傷つけて、傷つけられるほどに。
その衝動は、電流のように、オレの体の中を駆け巡り、指先までも痺れさせる。
それでも僅かに残った理性のせいか、彼へと伸ばそうとした、その手が震えた。
「デンジさん?」
揺れるグレイの瞳が、オレを、とらえる。
視線を合わせたまま、肩を抱き、尖った頤を持ち上げて、その小さな唇を奪った。
びくりと震えたその身体は、けれど、オレを突き放そうとは、最後までしなかった。
***
そうして次に会ったとき、もう彼は壊れていた。
気がつかないうちに奪われていたのだと、泣いていた。
「こんなのいやだ、」
ほろほろ、ほろほろと、大きな瞳が溶け出してしまいそうなほど、美しい雫が零れていく。
どうしたら彼を泣き止ませることができるのかわからないで、オレはただ、彼の頭を抱いていた。
「もういやだ」
ひび割れた声で、彼がそう呟いた、次の瞬間。
世界は青に染まった。
***
理性が吹っ飛んだ。そうとしか、言いようがなかった。
裸の身体にシーツを巻きつけて、腕の中の少年を眺める。
オレは同性愛者でもなければ、自分とこんなに年の離れた人間に手を出したいと思う趣味嗜好も持ってはいない。そのはずだった。
だから彼への気持ちがまさか、こんなどろどろとした欲望を伴うそれだなんて、ぎりぎりまで気がつかなかった。
この温度を、求めていた。彼を抱いて、そう気がついた。
随分と無体を強いて、泣かせて、それでも止められなかった。彼の目には、オレの姿は、一体どんな風に映ったことだろう。
浅はかなまねをしたと思う。それで取り戻したものが、これから失くすだろうものに見合うかどうか、オレにはわからない。
閉ざされた瞳を飾る、黒い、長い睫毛の先に、ちいさな雫が光っていた。唇を近づけて、それを吸い取れば、白いまぶたがぴくり、と動く。
「コウキ?」
目が覚めたのだろうか。
向けられるだろう罵倒と、怯えを覚悟して、名を呼ぶ。けれど、彼が目を覚ますことはなかった。
内心少しほっとしながら、手の甲で、頬を撫でる。安らかな呼気。
少し血が引いた、冷たい身体に、罪悪感が刺激される。
オレが知りたかったことの答えを、オレは手に入れた。けれどそれは、更なる謎を、オレにもたらしただけだった。
気のせいでなければ、コウキは昨日、オレに、応えようとしてくれていた。けれどその理由を、オレは知らない。
慣れた反応。逃がしたくないと、まるで、望んでくれているかのような。
――もしかして、という思いがある。現実感がなさ過ぎるその思い付きが、もし正解だったとして。
(オレは、どうしたらいい)
こんなことをしておいて、今更だ。それでも。
「……きみを、……今度こそ、」
まもりたいのだ、と、囁いたら、果たして信じてもらえるのだろうか。
耳の奥で鳴り響く悲鳴は、遠く近く。
窓から差し込む、薄青く、白み始めた空のひかりが、ふたりだけの世界を照らしている。