Snip snap dragon!

「ふ、んん……ん」
 どうしよう。
 それがボクの、今の正直な気持ちだ。
「ん、あ、ちょっ……ん、ん」
 ぴちゃ、ぴちゅ。濡れた音が、うん、なんかもう、そうとしか言えない音がですね、さっきから狭い部屋の中に響いている。いたたまれない。
「ぷは、はあ、はあ、ちょっと、まっ……んんっ」
「……黙って」
 低くて、なんかぞくっとするような声が、優しく優しく囁いている。
 でもボクにはわかる。あれは優しいだけじゃない、中身が真っ黒だ。わざとやっているんだ、彼は!
 だって鏡の中のボクと、さっき、ばっちり、視線が合って。
 にや、としか、表現しようのない顔で笑って。
「ミクリさぁん……」
「ん……私のことだけを、見ていればいい」
 そうしてまた、彼らはキスを再開した。さっきより深く、さっきよりも、……いやらしい音を立てて。
(何の嫌がらせなんだ……!)
 衝立の後ろ、ちょうど、大きな鏡で二人のやっていることがぎりぎり見える場所で、ボクは頭を抱えた。
 視線を逸らしたいが、なんか妙な吸引力でも働いてるのか、逸らせない。未知に対する好奇心のしっぺ返しをこんなところで喰らうなんて。
 いや、でも、まさかこんな、コンテストの控室でこんなことを始めるなんて思ってなかった。ボクの見通しが甘かったのか。
 今となっては後悔と、そして申し訳なさで頭がいっぱいだ。
 どうすることもできず、おろおろとしているボクの視線の先、抱き合う二人の姿勢が変わった。
 ずっとされるがままになっていたユウキさんの腕が、ミクリさんの背中に、縋り付く。
 その瞬間、ちらり、と見えた彼の表情に――ボクは、息をのんだ。

 上気した頬。
 赤く腫れた、唇。
 少し吊り気味の、大きな瞳は、とろりとした光を宿して潤む。
 さらに深く、相手を求めようとするその視線に、恋はタフじゃないとできない。そんなことを彼が言ってたのを、ふと思い出した。
(や、らしい)
 心臓が変な音を立てて跳ねた瞬間、ものすごく冷たい視線を別方向から受けて、ボクはあわてて顔を逸らす。
 いま、ボクは、なにをおもった?
(ごめん、ユウキさんほんとごめん……!)
 ああ、せめて、もっと早くにここを出られていれば!
 それか、こんなのが始まる前に、とっとと逃げてしまっていれば。
 こんなことには、ならなかったのに。
(いや、そもそも、ユウキさんの頼みごとなんか聞かなきゃよかったんだ……!)
 固く目をつぶり、耳をふさいで、息を殺しているしかない。
 ボクの足りなさすぎる人生経験では、今、この状態を、どう切り抜ければいいのかわからなかった。
(なんでこんなことにー!!)

 全ての始まりは、二週間前にさかのぼる。


***


 その日ボクが、そのコンテストを見ようと思ったのは、ここ最近続いていたスランプの、気分転換を兼ねてだった。
 気持ちの切り替えは、あんまりうまいほうじゃない。わからないことがあると、すぐにつまずいてしまう。
 ボクが悩んでいたのは、コンテストのことだった。
 ウルトラランクまでは、何とか勝てた。でも、マスターは、さすがに手ごわかった。何度も挑戦したのだけれど、どうしても一番にはなれない。
 どうして勝てなんだろう。練習もたくさんしたし、新しい技の工夫もしてみた。でも、だめだった。
 ポケモンたちのコンディションは上々だ。毛艶だっていいし、おやばか視線だけじゃなく、どこからどう見たって、魅力的だった。
 足りないものがあるとすれば、それはボクのせいだ。
 何が足りなんだろう。聞いてみたら、ある人に、それは「恋」じゃないか、と、言われた。
「恋?」
「そう、恋」
 その人は女の子だったから、そんな答えだったのかもしれない。でも、ボクが恋を知らないのもまた、事実だった。
 だから、藁にもすがるような気持ちで、いろんな人に聞いてみた。
 皆、くれる答えがばらばらだった。
「お前にはまだ早いんじゃないか?」
 笑いながらそんな返事をくれたひどい人とは、当分バトルするまいと思った。
 わからないことがあるのは、気持ちがわるい。それを、まだ早い、なんていわれたら、気にしないわけにいかない。
 さらなる泥沼に足を突っ込んだような気持ちで、ボクは少なからずやけになった気持ちで、コンテストを見に行った。
 その日やっていたのはノーマルランクのかわいさコンテストで、だからうってつけかなって思った。
 コンテストに出る人には、圧倒的に女の子が多い。そして、恋に落ちた女の子は、可愛くなるっていうから。
 そこでボクは、彼に出会った。

 白いスポットライトを浴びながら、優雅に一礼してみせる少年は、ボクよりひとつふたつ、上くらいに見えた。
「エントリーナンバー3、ユウキさん」
 一目見た瞬間、ああ、このひとは、強いトレーナーなんだなってわかった。
 身のこなし、振る舞い、それに、なんていうんだろう。空気、みたいなものがあって。
 でも、強さが、コンテストでの魅力につながるとは限らない。
 もちろんメリッサさんや、ホウエンの元チャンピオンみたいな例があるのは知っているけど。
 彼はどっちだろう。興味をひかれたのは、まずはそこから。
 そして、それからボクは、彼に、圧倒された。

 一つ目のビジュアル審査は、文句なし。
 ポケモンのコンディションは、言うに及ばず。
 テーマはもちろんのこと、どう着飾れば自分のポケモンを魅力的に見せることができるか、彼は知り尽くしているみたいだった。
 愛らしいクチートの姿に、会場中が悩殺される。まさしく、そんな感じ。
 その次はダンス。
 舞台に上がる直前、まるでお姫様をエスコートする王子様みたいに、小さな手を引いて、彼は何かを囁く。
(……うわ)
 双眼鏡を持ってきてたから、彼らの表情の動きは、すごく、よくわかった。
 クチートの赤い瞳は、トレーナーへの信頼でいっぱいだし、それを受ける彼の方も、誇らしそうに、そんな彼女をステージへと送り出す。
 きれいに着飾った彼女が、軽やかにステップを踊り切り、歓声を受ける。
 すると彼は、彼女こそが自分のパートナーなんだとでもいうみたいに、本当にうれしそうに、笑った。
 その顔が本当に魅力的で。
 どきどき、した。

 最後の演技審査の、一番最初のアピールが終わった時点で、ボクにはもう、このコンテストの優勝者がわかっていた。
 なんでこんな人が、こんな低いランクのところに出ているのか。それがどうにも不思議だった。
 彼ならウルトラランク――いや、マスターランクさえ狙えそうな場所にいるのに。
 胸の高鳴りが抑えきれないまま、ボクは会場から出てくる彼を待った。
 彼ならボクの知らないものを知っているかもしれない。
 ボクに、それを、教えてくれるかもしれない。
 高揚感に包まれながら、ボクはざわつくロビーで、風変わりな白い帽子の少年を探す。
 しばらくして受付のドアが開き、予想通り、かわいらしいピンクの髪留めを持って、彼が出てきたとき、ボクはほとんど走るように、彼のそばに近づいた。
「さっきの、途中までですけど、見てました。おめでとうございます」
 彼を呼び止め、そう声をかける。少し驚いたような顔をして、それから嬉しそうに、ありがとう、と微笑んだ彼は、さっきのステージにいたときより、幾分幼げに見えた。
「フタバタウンのコウキです。ええと、ユウキさん、でしたよね」
「ああ。……フタバのコウキ? どっかできいたな」
 首をひねる彼に、曖昧に笑った。別にボクのことはどうでもいいんだ、今は。
「ユウキさん、少しお時間、もらえませんか? あなたとお話がしたいんです」
 ユウキさんは、ボクをじっと観察するように見つめた後、いいよ、と頷いた。 

 それからボクたちは、ふれあい広場に移動した。
 ボクはフワンテ、ユウキさんはアチャモと連れ立って、賑わう公園の中をしばらく案内して回る。
 そのついでに、人気のない場所を探していたんだけど、今日はちょっと、人が多いみたい。
 さすがにストレートに聞くのも恥ずかしいんだけどなあ。と、思ってひそかに落ち込んでいたら、ぷ、と吹き出すような声が聞こえた。
「……ユウキさん?」
「や、ごめん。コウキっておもしろいな」
「……何がですか?」
 意味が解らない。ボクが首をかしげると、隣でぷかぷか浮いてたフワンテも、それをまねるように体を傾ける。
 それを見て、ますますユウキさんの笑みは深まった。
「なんか、あんまり人に聞かれたくない話があるんだろ」
 いきなり図星をさされて、ボクは思わず、息を呑んだ。ユウキさんは、ボクをからかうときのオーバさんとかデンジさんとかみたいな顔をして、やっぱりな、と頷いた。
「あの辺なら、人も少ないし、大丈夫じゃないか?」
 彼が指差したのは、広場の中心を少し外れた場所にある、小さなベンチだった。
 ボクはそれに同意して、それから尋ねた。
「なんでわかったんですか?」
「顔に全部出てる」
 ボクは思わず、片手で顔を覆った。そんなボクに、ユウキさんは今度こそ、声を立てて笑った。
 ベンチにひとり分くらいの間を開けて、二人並んで腰かける。ボクはフワンテを膝に乗せ、間に空いたスペースには、ユウキさんがちょこんとアチャモを下ろしてやった。
 その手になついてすり寄るアチャモを構いながら、それで? とユウキさんが促す。
 ボクはしばらく言葉を探して口を開閉したが、やがて覚悟を決めて、ストレートに尋ねた。
「ユウキさん、恋ってしたことありますか?」
 彼は少し目を丸くし、それから少し、不機嫌そうになった。
「あるけど、なに」
「それって、どんなものですか」
 ユウキさんは、ボクの不躾な質問に、なんだか渋い顔をしていた。けれど、小さく一つ溜息をついて、答えてくれた。
「しんどい」
「え」
「めんどくさい。その人のことばっかりしか考えられなくなるし、ほんとどうしようもないようなことで、いちいち感情が波立つし。いいことない」
 ボクは絶句した。
「……なんか、大変なんですね」
「その通りだ」
 自分とそう変わらないくらいの年齢のはずの少年は、どこか疲れたように、重々しく頷いた。
「っていうか、なんでそんなことオレに聞くかな」
 鋭い視線を向けられて(でもボクを促したのは彼なのに、ちょっと理不尽じゃないかな!)、ボクは洗いざらい、今自分がぶつかっている壁について話すしかなくなった。
 始終、機嫌の悪そうな顔をしていたユウキさんだったけれど、それでもちゃんと最後まで、ボクのつたない話を聞いてくれた。
 そして、言った。
「あのさ。いくら他人に聞いても、わかんないぜ、それ」
「やっぱり、そうなんでしょうか」
「ああ。こればっかりはな」
 そうしてユウキさんは、少し不思議そうな顔をした。
「でも、それでなんで、オレが恋を知っているって思ったんだ?」
「……ユウキさんの、クチートに対する態度が、まるで、知り合いの女の子の言ってた、『王子様』みたいだったので」
「おうじさまぁ?」
 ユウキさんはすっとんきょうな声を出した。
「んなあほな。第一あれは、」
 言いかけて、彼は口をつぐんだ。どうしたんだろう、と様子をうかがっても、彼は片手で口を覆ったまま、その先を続けようとしない。それにしても、なんでそんなに顔が赤いんだろう。
 アチャモに膝をつっつかれても、びくりともしない。ボクが何度か声をかけてやっと、彼は自分が固まっていたことに気が付いたらしかった。
「……なあ、コウキ」
「はい?」
「コウキはシンオウのコンテスト、詳しいんだよな」
 さっきとは打って変わって真剣な表情に、内心疑問を覚えながら、ボクは頷く。
「まあ、それなりには」
「頼みがあるんだけど」
 そうして告げられた内容に、ボクはぱちぱちと瞬きした。