2556日目

 トウヤの生活は規則正しい。
 五時に起床して、普段ポケモンたちのいる庭園の掃除をはじめる。逃亡防止の柵やネットに綻びが出ていたら、その応急措置も行う。特別製のそれらを修理するのには、別にまとまった時間が要るので、場所だけを覚えて後回しにすることもある。
 掃除が終わったところから、ポケモンたちを外に出す。エリアごとに別れていて、天敵同士は近くのエリアに入れないようにしてある。
 二時間かけてそれを終えたら、次は彼らの朝食だ。
 広い庭園の中、てんでんばらばら、あちらこちらに散っているポケモンたちに食事の時間を教えるのには、彼の仲間達が協力してくれる。
 それが終わったら、今度は自分自身の朝食。ここまで来るのに、さらに一時間はかかる。
 事前の連絡がない限りは、店を開けるのは、十時になってから、と彼は決めていた。
 それまでの間に、もしつがいで預けられていたポケモンがいたら、彼らがタマゴを守っていないか確認する。現在はリーグ戦の時期で忙しいからか、そういうポケモンはあまりいない。
 今日は天気がいいから、草タイプのポケモンたちが浮かれて暴れださないように注意しなきゃな、と頭の片隅にメモをしながら、庭園の片隅に作った果樹園に水をやる。ポケモンたちの食費はバカにならない。育てられるなら育てるのが一番手っ取り早い。
 成長の早いカゴやモモンのほかにも、珍しいラムや、ザロク、ブリーなどと言った、ポケモンのお菓子に適する種類のものもここでは育てていた。
 頭が痛いのは預かっているポケモンのみならず、野生のポケモンたちもここに木の実を取りに来てしまうことだ。数で言えばそんなに大した被害は出ていないのだが、そういった野生のポケモンたちと、預かっているポケモンとの間にトラブルが起こるかもしれない、という懸念がある。
 ホース片手に水を撒き、土の状態を見ていると、みぎー、という鳴き声が、少し離れた場所で聞こえた。
「お、おはよう」
 そちらに振り向いて挨拶をする。近づいてきたのは、いつからかこの果樹園に住み着いた、ミネズミとミルホッグの親子だった。
 その危険察知能力の高さを買って、トウヤは彼らにここの番を頼んでいた。彼らはトウヤのポケモンではないが、報酬として育った木の実を食べていい、という条件で、ここに居ついている。
「今はあの辺が食べごろじゃないかな、適当にとってっちゃってくれ」
 彼らはトウヤがそのモモンの木を指すや否や、あっという間にそこへ飛んでいった。わかりやすいなー、と苦笑しながら、全部は取っちゃわないでくれよ、と追って声をかける。
 全部を食べつくさないだけの知恵はポケモンも持っているが、さすがにギリギリでほとんどを取られると辛い。以前、仕方のないこととはいえそれをやられてしまったことがあるだけに、トウヤは少しだけ心配だった。最近はそういうことは滅多に起こらないが、たまに予想もつかないようなことをやってくれるだけに、警戒は怠れない。
 ポケモンと人間は、あくまで、違う生き物だった。

「よし、これで終わり、と」
 全ての木に水を撒き終わり、かがんだ腰を伸ばすと、凝り固まった筋肉が悲鳴を上げた。
 トレーナーとしてあちこちを歩き回っていた頃よりも、今のほうが生活はのんびりとしている。そのつけが出ていた。
 ぼくももう年かな、などと、それこそ先代に聞かれたら苦笑されかねないことを呟きながら、店のほうに戻ろうと踵を返しかけたところで、彼は足を止めた。
 店の、道路に面したのとは逆の、果樹園側の入り口――関係者以外は立ち入り禁止となっているそこから、一人の青年が出てきたからだ。
 実はこれも、たまにあることなのだ。やはり呼び出し用のベルの位置が悪いのかもしれない、と、トウヤは頭の中で呟いた。
「ええと…お客さん、ですか?」
「お店が開いていなかったから」
 そう平坦に答える声に、彼は妙な懐かしさを覚えた。どこかで聞いたことがある気もするが、しかし、その正体が思い出せない。
「ああ、すみません。今戻りますから、中で待っててくれますか」
 そう声をかけたにもかかわらず、青年はそこから動かなかった。とりあえずホースを片付け、入り口の隣にある水の元栓を閉めたところで、トウヤは自分が凝視されていることに気がついた。
 自分がしゃがんでいるせいで、随分と高い位置にある青年の顔はしかし、帽子の陰になり、逆光のせいでよく見えない。そのことに不気味さを感じながら、トウヤは恐る恐る、尋ねた。
「ええと…何か?」
「わからない?」
 やはりその声に聞き覚えがあるような気がしたが、さて、どこで聞いたのだったか。トウヤが首をかしげると、青年は溜息をついた。
「中身はともかく、見た目はそう変わってはいないと思うんだけどな」
 そう言って青年は帽子を外した。トウヤは立ち上がり、その顔をまじまじ見て、あっと声を上げた。
「まさか、N?」
「そうだよ」
 まさか本当にわからなかったなんて、と、呆れたような顔をするNに、トウヤはむっとした。
「七年も前に、何回か会っただけのやつの顔なんか、忘れて当然だろ」
「ボクはすぐにキミだってわかったけどね」
「そりゃどーも」
 トウヤは不機嫌そうな態度を隠さずに、Nを軽く睨んだ。外見で言えば、出会った時には成長期を通り越していたNよりも、その真っ只中であったトウヤのほうが変化の度合いが大きい。
 身長も十センチ近く伸びたし、あの頃既に変声期を迎えていた声だって、わずかではあるが低くなった。体格だけは、着やせするせいか、未だに細く見られがちだが、それでも成長しきった大人の男のそれになっている。
 対してNは、あちらこちらに年月の差は感じさせる箇所があるものの、全体的な印象はあまり変わっていない。見た目は。
「それで、ご用件は?」
「え?」
「ここは育て屋です。二匹までなら預かれますし、タマゴが見つかったらそれはあなたに渡します。預かったポケモンの、上がったレベルに応じて、報酬をいただきますが」
 極めて事務的な口調で業務内容を説明するトウヤに、Nは一瞬呆気に取られたようだった。それからくく、と、低い声で笑う。
「仕返しのつもり? こどもっぽいね」
「今は業務時間中だし、お前は店に来たんだろ」
 トウヤはそう言い捨てて、まだ面白そうな顔をしているNをどかして自分の店の中に入った。
 ぱし、と後ろから手首をつかまれて、不機嫌な目でそちらを振り返る。
「なに」
「話がしたい」
 Nの口から告げられたその言葉に、トウヤは目を丸くした。それから、さっきよりもずっと温度を急降下させた声音で、言った。
「ぼくには話すことないけどな」
「嘘ばっかり」
 実際のところ、Nの発言は当たっていたので、トウヤの眉間の皺はさらに深くなった。今ならチェレンとタメをはれるかもしれない、と一瞬関係ないことを思いつき、そして彼は溜息をついた。
「今日は休みにする。だから、その手を離せよ」
 Nは今度はあっさりと、トウヤの手を解放した。するりと離れたその温度に僅かに寂しさを覚えたが、それに気付かなかった振りをして、トウヤはことさら無感情に、果樹園側の出口から階段を登って居住用のスペースに行くよう告げ、Nを店から締め出した。これ以上、自分の「普段」に、侵入されたくなかった。
 閉じた金属の扉に凭れ、そうしてまたひとつ、大きな溜息をつく。
(…ほんと、今更だ)
 間違いなく、自分は彼に未練がある。それをまざまざと突きつけられて、どうして無事でいられるだろう。
 玄関先に、臨時休業と書かれたプレートを出し、店の戸締りを確認して、もう一度、果樹園側の扉を開ける。そうして、彼は、呆れた。
「おまえ…人の話聞いてたか?」
 Nは何故か、出入り口の隣の壁に肩を預けて、トウヤを見ていた。相変わらず、帽子の下の茫洋とした緑の瞳からは、感情を読み取ることが難しい。
「聞いてはいたけど、気になって」
 Nはそう言いながら、身を起こした。黒いシャツに、白い塗装の壁にに張り付いていた埃が、まだらの模様を作っている。
 何で、と聞き返そうとして、トウヤは言葉に詰まった。Nの瞳が、責めるような色を湛えて、じっとトウヤを見透かそうとしているような気がしたからだ。
「…今更逃げないよ」
「そうみたいだね」
 トウヤはNの先に立って、育て屋に外付けされている階段へと向かった。この階段を登らなければ、居住スペースへは入れないようになっている。
 預けられているポケモンたちがうっかり、重要な書類を食い破ったりしないようにするための措置であると同時に、敷地内を容易に見回すことができるようにするためでもあった。
 金属の階段に、二人分の硬い足音が続く。と、不意にNが足を止めたのに気づき、トウヤは肩越しに振り返った。
「どうした?」
 Nは敷地の中で遊ぶポケモンたちを見ていたようだった。帽子の庇に隠れて目元は見えないが、その口元が僅かに綻んでいるのが、トウヤにもわかった。
 トウヤが自分を見ていることには気がついているだろうNは、しかし、沈黙を保っていた。
 その視線の先が急に変わる。どうしたんだろう、と思って、そちらを見れば、トウヤのパートナーがそこにいた。果樹園とは反対側の、主にレベルの低い、幼いポケモンたちが遊んでいる辺りのエリアの出口に佇んでいる。
「ジャローダ」
 名前を呼べば、いつもなら飛んでくるはずの相棒は、しかし、今はぴりぴりした空気を隠しもしないで、じっとトウヤたちを――正確にはNを、睨みつけていた。
「きゅいいいい」
 高い警戒音で彼が鳴く。違う、威嚇をしている。周りで遊んでいた筈のポケモンたちが、どうしたのか、とこちらに注意を向け始めたのがわかった。
「ジャローダ?」
 トウヤが階段を下りかけると、Nがそれを制した。完全に自分に背を向けた彼の意図がわからず、ただ、首筋を隠す緑色の髪と、黒いシャツを見つめる。
「相変わらず賢いね、キミのパートナーは」
「え?」
「自分の愛するものを奪っていこうとする誰かには、きちんとセンサーを張り巡らせている」
 ジャローダは赤い瞳にNを見据えながら、持ち前の素早さを発揮して、育て屋の母屋へと近づいてきた。
 きゅいい、と彼が鳴く。Nが、低い声で、それに応じた。
「悪いけど、それは聞けない。…大丈夫、トウヤにひどいことはしないから」
 どうやら話の中心人物らしいトウヤは、しかし肝心の話がNの分しか聞こえないので、あまりうまく状況が飲み込めない。
 が、しかしどうやら、漏れ聞こえる会話(?)からすると、どうやらジャローダは、Nがトウヤに危害を加えることを心配しているらしかった。
「ジャローダ」
 今度の呼びかけには、ジャローダはきちんと反応した。首を上げて、トウヤを見る。不安そうな顔の相方に向けて、トウヤはゆっくり頷き、大丈夫だ、と言った。
「今のNは大丈夫だ。たぶんね」
 しかし、ジャローダはまだ、心配そうな表情をしている。さてどうしたものか、とトウヤが頭を抱えたとき、Nがどこからかひとつのモンスターボールを取り出した。
 トウヤがぽかんとしていると、Nはそれを中に放り投げる。中から現れたのは、レパルダスだった。
 一瞬にして緊張したトウヤとジャローダの目の前で、レパルダスはちらりとNを見ると、やれやれとばかりに頭を振った。それから、ジャローダのほうへ向かう。
 ジャローダとレパルダスはしばらく何かを話し合うように声を交わしていたが、やがてレパルダスがジャローダの横を通り抜けて、育て屋のポケモン育成用の敷地に入っていった。
 その後を、ジャローダが追う。彼は一度だけ、心配そうな顔をしてトウヤを振り返ると、周りに集まっていたポケモンたちを散らして、普段は解放してある敷地を仕切る扉を器用に尻尾で閉めた。
「…レパルダスに説得丸投げしたのか」
 トウヤがそう尋ねると、Nは振り返りざまに、レパルダスがそうしたいと言ったから、と、笑った。
「さて、案内してもらえるんだろう?」
 元凶が平然と笑って先を促してきたことに、なんだか釈然としないものを感じはしたが、トウヤは黙って、再び階段を上がる。
 なんだか厄介なものを招き入れつつある気がするのは、たぶん気のせいではない。