Moonlight shadow
雨が降ったせいだろうか。どこか滲んだ夕暮れの朱い空は、炎タイプのポケモンの放つ焔のように、鈍色の雲の狭間に揺らいでいた。
いつもなら次第に多くなってくるレストランの客の応対をしている時間帯だが、今日は休業日だ。
ポッドは空の向こうを、睨み据える。約束の時間だった。
「またか」
一つ溜息。いつもならバオップがそろそろ待つのに飽きてじゃれかかってくるところだが、今日は気を利かせたのかなんなのか―単に半ば恒例行事となっている、ポケモンバトルでの被害を出したくないだけかもしれない―コーンとデントが預かってくれている。
十分程遅刻して、待ち人は来た。
「遅い」
「ごめん、行き掛けにバトル仕掛けられて」
トウヤは苦笑して謝った。そんなことだろうと予想はついていたから、別にポッドも大して怒ってはいない。
「とりあえず飯食いに行くか」
ポッドの言葉に、トウヤはこくりと頷いた。
ポッドとトウヤの関係は、恋人のようなものだった。
お互いに好意があることは知っているが、それを口にしたことはない。気恥ずかしさもあったし、また性格としても、二人ともがあまりそういうことに向いていない性質を持っているせいもある。
ポッドはジムリーダーとしての仕事にまだ完全には馴れていないせいもあり、ともすれば、トウヤのことを忘れることもよくあった。
トウヤはトウヤで、まるで何かに憑かれたかのように、あちこちをあてどなくふらふらと旅をして回っている。
それでも二人の関係が奇跡的に続いている理由のひとつは、間違いなく、二人とも食べることが好きだという、その共通点だった。
ポッドは仕事柄―ジムリーダーではなく、もうひとつの本業のほうだ―研究を兼ねて外に食事しに行くことが多い。それにいつの間にかトウヤがくっついて行くようになった。
きっかけは、あまりよく覚えていない。と、いうことになっている。
トウヤもきっと、それを望んでいるだろうから。
物静かだが、内面にしっかりした軸を持つトウヤに、ポッドは好感を持っていた。
トウヤにとって初めてのジム戦が、サンヨウジムでのそれであったこともあるのだろう。トウヤはポッドとのバトルに何か、特別の思い入れがあるのだと言っていた。
「そらをとぶ」の秘伝マシンを手に入れた後、ひょっこりジムへと顔を見せたトウヤが、どことなく悄然として見えたために、ポッドは再会祝いだ、という名目で、とっておきの茶葉を振る舞った。
それを気に入ったトウヤが、それから折々、ポッドの元を訪れるようになって、二人の関係は親密になっていった。
それ以外で、トウヤがポッドのどこに惹かれたのかはわからない。聞いてみたいと思わないでもないが、それはそれで照れ臭かった。
トウヤはあまり感情を表には出さないが、ポッドの前ではそれが崩れる。それでいい、と、ポッドは思っている。
今日入った店は、まあまあのところだった。
どちらかというとアットホームな雰囲気の小さなグリルで、感動的に旨いというわけではないが、優しい味がした。
ぽつぽつと近況を話ながら、料理をつまむ。どちらかというとポッドの方が口数が多いのもいつものことだ。
有線で古いポップスが流れている。邪魔にならない音量だったが、ふと、流れてきた曲に、トウヤが手を止めた。「どうした?」
ポッドが尋ねると、トウヤは、ひかえめな笑みを見せた。
「好きな曲なんだ」
彼の表情を見て、ああまたか、とポッドは思った。旅を続ける、トウヤの顔だ。
トウヤの好きだといったそれは、恋人を殺された女の歌だった。月光にさらわれた恋人、彼と天国での再会を願う、そんな歌詞だったと、ポッドはおぼろげな記憶を引っ張り出す。
「また暗いのを」
「いい曲じゃないか」
「メロディはな」
ポッドはあまり、好きではない。それを口に出す代わりに、白身魚のフライを口に運んだ。ソースはホウエン風の、ぴりりとした味付けだ。
女性ボーカルが、高らかに喪った恋を歌う。ちり、と胸の奥で、痛むものがあった。
トウヤの胸の内に棲むものを、ポッドはあまりよく知らない。
聞けば教えてはくれるだろうというのは、わかっていた。そもそも、ポッドに対するそれとは違う感情なのだ。
ポッド自身もわかってはいる。英雄と呼ばれるようになった少年が相対してきたものこそが、ポッドとトウヤの距離を縮めるきっかけになったのだから。
けれどきっと、その存在はトウヤの中では永遠で不可侵だ。
無くしたものは綺麗になるばかりで、トウヤが旅を続ける理由も、多分そのあたりにあるのだと、ポッドは思っていた。
じりじりと、胸の底を焦がすものがある。それはきっと、トウヤがトウヤであり続ける限り、――ポッドがトウヤと一緒にいる限り、一生ついて回る感情だということも、ポッドにはうすうす、予想がついていた。
「ポッド」
胸のうちに渦巻こうとする重たい感情の雲、それを見抜いたようなタイミングで、トウヤが名前を呼ぶ。
「何だよ」
「好きだよ」
唐突な告白に、ポッドは思わず、フォークを取り落とした。
「……、……なんだよ、薮から棒に」
返答がややつっけんどんになるのはしかたないだろう。トウヤはいたずら好きのチョロネコのような顔をして、にんまりとしていた。
「ん、あんまりかわいい顔してるから」
「かっ…」
からかうような言葉に、絶句するしかなかった。細められた目は楽しそうで、つまり、見抜かれているのだ。
ばつが悪くなって、大人げないとは思いながらも、ポッドは顔をそらした。
「……お前って、たまに性格悪いよな」
酷いな、トウヤは悪びれもしないで、肩を竦める。それとほぼ同時に、いつか向こうの世界で、と儚いリフレーンを残して、曲が終わった。
しばらくの沈黙をはさんで、また別の曲が始まる。今度はしっとりとしたバラードだ。
「トウヤ」
名前を呼ぶと、トウヤは即座に、なに? と、小さく首をかしげた。
その少女めいた顔立ちの中で、ひときわ目立つ柔らかい枯れ葉色の瞳は、真っ直ぐにポッドを見つめている。
月光の向こうに消えて行った誰かではなくて。
(……今はそれでいいか)
重く胸に積み重なるあきらめよりは、ほんの少し甘い気持ちが、笑みになって零れる。
「なんでもない」
不思議そうな恋人に、静かにそう返して、ポッドはフォークを拾い上げた。