Eat me
背中から抱きこまれて、同じソファーの上で、同じラジオの音を聞いている。
「オーバさんなかなか出てきませんねえ」
「出てこなくていい」
それじゃ何のためにこのラジオはつけてるの。口には出さずに、ボクは苦笑した。
今日はオーバさんがトレーナー向けの番組のゲストで出るとかで、お前ら絶対聞いとけよ、と何故か二人揃って本人から釘を刺されて、デンジさんの家でいっしょにラジオを聞くことになった、のだ。
デンジさんは口は悪いけど、その実、オーバさんのことはすごく大事な友達だと思っているのを、ボクは知っていた。
ボクとのことをオーバさんが知っているかは知らない。オーバさんにしてみれば、まあまあ仲がいい、位の認識じゃないだろうか。こんな風にセットで扱われることは、あんまりないから。
正直、たぶん、言いづらいだろうなあ、と、思う。ボクだって、ジュンには言えない。
でもデンジさんはそんなことは一度だって言わなかった。気にした様子も、見せたことはない。
「ボク達に必ず二人で聞け、だなんて、どうしたんですかね、オーバさん」
「さあな。……妙ににやにやしやがって、絶対なんかたくらんでるぞ」
デンジさんはどこか渋い顔でそんなことを言っていたけど、まあ正直ボクもちょっとそんな気はするけど。
ボクは手持ち無沙汰に、ボクのお腹の上に置かれていたデンジさんの右手を取った。
ボクはデンジさんの手が好きだ。
スパナやドライバーやレンチや、もちろんモンスターボールや、ポケモンたちを、そのごつごつとした、骨ばった見た目よりはずっと繊細に扱う、大きな手が好きだ。
その手でやさしく触れられると、どうしようもなく幸せな気持ちになってしまう。
(いや、それは、単純にボクが、デンジさんのことを好きだから、かもしれないんだけど)
左手で手首の辺りを支えながら、同じ右の掌を、デンジさんの手の甲の上に重ね合わせてみる。
「やっぱりデンジさんの手は大きいね」
間節一つ分は大きな手に感心していると、当たり前だろ、どこか眠そうな声が降ってきた。
ボクの頭のてっぺんにほっぺたを乗せて(多分)、デンジさんは言う。
「もういっそ寝るか?」
「ええ? それはちょっとさすがに、オーバさんがかわいそう」
「かわいそうがらなくていいよ、あんなやつ」
どこかとろんとした声は、多分本気で眠たいんだろう。
「ちょっと寝る? オーバさんが出てきたら、起こしてあげるから」
「いや、いい」
「そう?」
「ああ」
低く、くぐもった声が、近い。背中から伝わる鼓動は、いつもより少しだけゆっくりだ。
ボクはデンジさんの指と指の間に、自分の指を差し込んでみた。いわゆる恋人つなぎ、の形だ。
空いているほうの手で、続けて手の甲を撫でる。ざらざらとして少し荒れた感触は、でも、ボク自身に馴染んだそれだ。
長い指の一本一本をなぞるように、指先で辿る。デンジさんはなすがままだ。
「デンジさん」
名前を呼んでも、返事が無い。もしかして、ボクに寄りかかったまま、寝ちゃったんだろうか。
「起きてる?」
背中に張り付いた人は、沈黙を保ったまま。ボクを膝に乗せたままで、重くないんだろうか。
ラジオからは陽気な声で、ポケッチのコマーシャルが流れている。
デンジさんを起こすべきだろうか。多分これが終われば、後半のゲストだろうオーバさんが出てくるはずだ。
「デンジさん」
もう一度名前を呼んだ。静かな呼吸が、頭皮を撫でている。
ふと、悪戯心に駆られて、ボクはデンジさんの手を、目の前まで持ち上げてみた。力の入っていない手は、少しだけ重いような気もする。
その中指の、短い爪の先に、唇で軽く触れてみた。そのまま、指の形を辿る。
指の付け根の、ちょっと骨の出っ張ったところに、少しだけ歯を立てた。
(あー、このまま、)
「食べちゃいたい、かも」
デンジさんの口癖の意味が、何となくわかったような気がした。ひとり、くすりと笑うと、頭の上でデンジさんが動いた。
「いいぞ」
「冗談で……え?」
ボクはデンジさんの右手を抱えたまま、固まった。ボクの体を支える腕にこもる力が、ほんの少し、強くなる。
「食べてみるか?」
「デンジさ、ん、起きて?」
「ああ」
あまりの恥ずかしさに、ボクは逃げ出したくなった。
「な、なんで」
「返事するのがめんどくさかったのと、あとなんかおもしろそうだったから」
「ひどい!」
ボクは体をよじって、デンジさんを睨みあげた。デンジさんは飄々とわらっている。
「で、どうするコウキ。オレを食べてみるか?」
「だから冗談だって、」
「お前がオレを食べるなら、その代わりにオレもお前を食べるけどな」
デンジさんは巧みにボクの手を捕まえて、さっきボクがしたみたいに、ボクの手を、意地悪く弧を描く口元へと持っていく。
そうしてさっきの動きをなぞるように、唇で指をなぞられて、背筋があわだった。
ちゅ、と、手の甲に音を立てて口付けられて、でも、しっかりと捕らわれた手を、取り返すことはかなわない。
「な、な、な」
ぱくぱくと口を開閉させるボクを面白そうに見下ろすデンジさんは、本当に楽しそうだった。
「本当にコウキはかわいいな」
「か、からかわないでくださいよ」
「うん? 先にオレをおもちゃにしたのはお前だろ?」
何て人聞きの悪い!
わかっていて、にやにやと笑っているデンジさんが憎たらしい。
「もう、」
「あ、オーバだ」
ボクが苦情を言い立てる前に、デンジさんの意識はラジオへと向いた。
こっちの感情をさんざん荒らしておきながら、さっきまでのどこか息の詰まるような空気をあっさり散らすデンジさんに、ちょっとの苛立ちと、相反する安心感を覚える。
よく考えなくても、ボクばかりが振り回されているような気がして、少し、いや、大分面白くない。
口を尖らせながら、ボクも、ラジオに耳を澄ました。
ラジオ越しに聞くオーバさんの声は、生で聞くのとは何だか少し印象が違う。
司会のお姉さんと、バトルとか日常生活についてとかの話をしたあと、もう番組も終わりごろになって、オーバさんは不意に、言い出した。
『あー、そうそう、ラジオの前のバカップル』
「え」
『付き合い始めて一周年、おめでとうさん! あんまりオレに迷惑かけるなよ!』
ボクがたっぷり十秒は固まっている間に、番組は終わった。
思わず、尋ねる。
「……デンジさん」
「なんだ」
「その、いつから知られて」
デンジさんは答えた。
「かなり最初から」
「最初っていつです」
「オレがお前を好きになってから」
こともなげにそう告げたデンジさんは、しかしそうか一周年、小さく呟いた。
「そういえばもうそんなになるのか」
「……いいたいことはすごくいっぱいあるんですけど、デンジさん」
「何だ」
「食べてもいいですか」
デンジさんはちょっと、呆気に取られたようだった。
「コウキがそういうの言うのは、珍しいな」
「それは、たまには」
ボクは体を反転させて、デンジさんと向き合った。
その広くさらされた額にキスをすると、デンジさんはくすぐったそうに笑って、言った。
「オレにもコウキをくれるなら」