組み立て式パーフェクトワールド
キーボードを叩くコウキの傍ら、退屈そうに欠伸をしていたレントラーの耳が、ぴくり、と立つ。
すっくと身を起こした彼が向かったのは、狭いアパートメントの玄関先だった。長年連れ添った友の行動に気がついたコウキは、キーボードを叩く手を止めて、そちらに視線を向ける。
がちゃりと金属音を立てて、ドアが押し開かれる。その向こうから現れたのは、見知った長身の青年だった。
「ただいま」
耳に心地よい低音に、コウキの口元がやわらかくほころぶ。
「おかえりなさい、デンジさん」
コウキは二人がけのテーブルにパソコンを放置したまま、デンジを出迎える。そして、その身形が随分と汚れているのを見て、苦笑を浮かべた。
デンジがコトブキシティにあるコウキの下宿にやってくるのは、実に二ヶ月ぶりだ。ナギサの家は引き払ってしまっているらしいから、名目上、デンジはコウキの同居人ということになっている。
とはいえ、一年のうち半分も、一緒に生活してはいないのだが。
「とりあえず、お風呂入りますか?」
遠回しに、その格好を何とかしろ、と告げれば、デンジは少しばつが悪そうに、そうする、と頷いた。
時刻は既に夜に近いから、風呂に湯を立ててしまっても問題はない。少し待っていてくださいね、と身を返したコウキの左手を、デンジが引き止めた。
怪訝な顔をしたコウキの額に、冷たい唇が寄せられる。そのくすぐったさにコウキが笑うと、デンジのかさついた手が、コウキの顎を捕らえた。
「ちょ、デンジさん、」
ドア開きっぱなし、と慌ててコウキが指摘すると、今にもキスを落としそうだったデンジは、わかりやすく不機嫌になる。
彼はコウキを捕まえたまま、部屋の中に少し押し込んで、乱暴に足でドアを閉めた。ばたん、と重い音。
そうして噛み付くように、驚いたコウキの口を閉ざす。今日はやけにがっついてるなあと思いながら、コウキは入り込むその舌に応えた。
ぴちゃぴちゃと水音を立てて、玄関先で唇を重ねる。このままなし崩しはちょっと嫌だなあと眉をひそめたコウキの背後で、レントラーが、ぐるる、と声を上げた。
窘められた、と気付き、デンジはちょっとだけ不満そうな顔をして、わかったよ、とコウキを解放する。
そうして、肩で荒く息をする細い身体を支えて、にやと笑った。
「そんなに良かったか?」
「…場所は選んでくださいよ」
頬に朱を散らして、言われても可愛いだけだ。と、デンジは口には出さなかったけれど、代わりに短い黒髪を撫でた。
そうしてもう一度、目蓋の上に唇で触れて、囁く。
「会いたかった」
コウキはきょとんとデンジの青い目を見上げて、それからへにゃりと笑う。
「ぼくも会いたかったです」
コウキがコトブキ大学に進学を決めるより少し前に、デンジはジムリーダーをやめて、トレーナーとしての旅に出た。
もともと一箇所にじっとしているのは、あまり性に合わなかったのだろう。デンジがずっとどこかに行きたがっていたのはコウキも知っていたから、とりたててそれを引き止めたりはしなかった。
そうして、トレーナー修行と称してあちらこちらの地方をまわるようになったデンジが、十歳年下の恋人であるコウキの下宿に転がり込むようになったのは、ごく自然な成り行きだった。
デンジが旅に出る前は、ずっとコウキがあちらこちらを旅して廻っていた。だから、現在は立場がちょうど逆転していることになる。
そしてその現状に、今のところは二人とも満足していた。
とはいえ、寂しさを感じていないわけではない。先ほどのように、玄関先でお互いがっついてしまうのは、実のところ恒例行事に近い。
「デンジさん、着替え置いときますよー」
曇り硝子の向こうにコウキがそう声をかけると、ありがとう、とくぐもった返事が返る。
脱衣場の前でおとなしく待っていたレントラーの鼻先を撫でて、コウキは久々の二人前の料理に取り掛かった。
「何がいいだろうね」
乏しい冷蔵庫の中身と相談しながら、コウキはひとりごちる。何故か豆腐が半丁残っているのを見て、麻婆豆腐が食べたいなあとぼんやり思った。
レトルトの具もあったかなあ、と戸棚を確認しにいくコウキの足元にまとわりつくレントラーは、もともとはデンジの育てていた個体だ。けれど数年前に怪我をしたことをきっかけに、コトブキに住むコウキに預けられている。
彼の頭を軽く撫でて、戸棚の中身を確かめたコウキは、思わずうなった。事前連絡なしでデンジが帰ってくることは珍しい。そして、コウキは基本的に、出不精だ。
「買出しかな、これは」
見事に物の入っていない戸棚を覗き込んだレントラーの、呆れた視線が、コウキの横顔に刺さった。
不健全な食生活を続けて、二ヶ月。言い訳も出来ない状況に、コウキは苦笑を浮かべた。
生活が不規則になりがちなコウキだが、デンジがいるときだけは、規則正しい生活を送る。
食事も三食きちんと取るし、朝起きて夜に眠る。
何故かというと、同居人であるデンジの生活能力が、コウキもびっくりするくらいに低いからだ。
流石に一人旅をできるだけあって、自己管理は不得意ではない筈なのだが、何故か一箇所に留まると、生活リズムが大幅に崩れる。
コウキと一緒に暮らし始める前からだから、これはもう彼の性質としか言えない。
そして彼が寝食忘れてしていることと言えば、大抵どこからか拾ってきたり買ってきたりした謎の機械類の改造に決まっていた。
今も、食事の後始末を終えた後、入浴していたコウキが風呂から上がってきてみると、デンジはいつものように工具類を広げて、かちゃかちゃと金属音を立てていた。
その隣で、滅多に戻ってこない主人に甘えるように寄り添うレントラーの姿は、凛々しい外見にそぐわず穏やかだ。
コウキはくすりと笑って、デンジの手元を覗き込んだ。
「今は何作ってるんですか?」
大きな手の平におさまった、謎の機械を認めてそう尋ねると、デンジは口元に悪戯っぽい笑みを広げて、
「秘密」
そう言った。
コウキが、ええ? と声をあげても、あとでのお楽しみだ、といって教えてはくれない。
しかたなく、わかりました、といって、コウキはその場を引くことにした。
どうせ今は教えてくれるつもりはなさそうだし、後で教えてくれるなら、今無理に聞くこともない。
(因みにそうして以前、ちょっととんでもないものを作られて、とんでもないところに突っ込まれたりしたのを思い出しかけたが、この際忘れておくことにした。次にやったら絶対別れる、と、さんざん脅しをかけたので。)
デンジが機械いじりに熱中している間は、放っておかれることが目に見えている。
コウキはパソコンを立ち上げて、レポートの続きを打ち込むことにした。何だかんだで、締め切りが近い。
カリキュレーションノイズを聞きながら、たまに横目で機械をいじる男の背中を見つめる。やけに楽しそうに見えるのは、多分コウキの気のせいではないだろう。
デンジの機械いじりの腕は、玄人はだしだ。ジムリーダーをしていたころは、わざわざ設計図を立てて、広大なジムを丸ごと改造したりしていたのだから、本格的にも程がある。
ただ、その結果ナギサの町中を停電に見舞わせたことも、一度や二度ではない。ジムに寄せられる苦情を処理するのに、ジムトレーナーや、何故か無関係のコウキまで駆り出されるのは、いつものことだった。
変わらない日々が退屈だと、死んだ目をしていた頃の彼の姿は、今はもうどこにもない。
「コウキ」
呼ばれてからしばらくして、コウキははっと顔を上げた。すっかり作業に没頭していたらしい。
「すみません、どうしました?」
「いや。オレはそろそろ休むけど、きみはどうするのかと思って」
そういうデンジはすでに、工具類の片付けを終えていたようだった。コウキのいるテーブルのところまで近寄ってくると、くしゃり、と髪をかきまぜる。
雑だけれど優しい感触に、コウキは目を細めた。デンジにこんな風に撫でられるのも、随分と久しぶりだ。
「レポート、もうすぐ締め切りなんだったか?」
「あ、はい。来週に二つ」
「忙しいところに、いきなり戻ってきて悪いな」
デンジの言葉に、コウキはきょとんとした。思わずまじまじと見上げて、それからおかしそうに笑う。
「何で謝るんです? ここはデンジさんの家なのに」
デンジの手が止まる。
「……どうしました?」
コウキが怪訝そうな顔をしていると、全くお前は、といううめきと一緒に、額にキスが落とされた。
驚くコウキを、上から覆いかぶさるように腕で囲って、デンジは溜息をつく。
「何でそんな可愛いんだ」
「えっ? えっ?」
「何でコウキ持って歩けないんだろうな」
モンスターボールに捕まえてポケットに入れられたら、いつでも一緒にいられるのに。低く蕩けた声がそう続けて、コウキは頬が熱くなるのを感じた。
いっそらしくないくらいに、恥ずかしい口説き文句を囁かれている気がする。
「いきなりどうしたんですか、お酒でも飲んでるんですか?」
「飲んでない。ほんとつくづくきみはオレを駄目にするなあ」
「ええええええ」
眦に唇を寄せながら、酷いことを囁くデンジは、何故かとても楽しそうだ。
「こんな風に一緒にいると、闘争心まで砕かれそうだ」
怖いな、といいながら、ちいさな鼻の頭に噛み付く。電灯の明かりに、青い瞳がきらきらと光った。それを縁取る睫毛は金色だとコウキが知ったのは、随分と前の話だ。
帰ってきたのは結構久しぶりだったから、実は家恋しくなってしまってたんだろうか? コウキは内心首をかしげて、おずおずと広い背中に腕を回す。
途端、きつく抱き返された視界の隅で、やってられない、とばかりに、レントラーが自主的にボールに戻るのが見えた。
「コウキ」
耳朶をくすぐる息は熱い。駄目か、と問いかける声に、一瞬書きかけのレポートのことが頭を過ぎったけれど、コウキは首を横に振った。
「会いたかったです」
呟いて口吻ける。距離が消える。深まる合間に、オレもだ、と愛しい声が返った。
今度はいつまで一緒にいられるかな。
声には出さない言葉を無視して、コウキはそっと、目蓋を下ろす。
いつだって恐れるように、やさしく触れる温度を、彼は知っている。