ひとりといっぴきのさびしがりやのはなし

 コウキが嘘をつかないことはデンジが一番よく知っている。
 だから帰ってくると言ったなら、彼は必ず帰ってくるのだ。

 そう信じていた。

 友達に会いに行ってきます。そう言ってコウキは出かけていった。
 彼のいう『友達』が、ジュンでもバクでも、会ったことはないが話には聞くヒカリという少女でもないことは、わかっていた。
 彼が名前を告げない『友達』。その正体を知ったのは、残念なことに、コウキ自身の口からではなかった。

 コウキがいなくなって三ヶ月ほどしたときに、シンオウリーグのチャンピオンが、デンジの元を訪なった。
 そうして、デンジに会う前にコウキが出会ってきたもののことを、初めて知った。
 それがもたらしたもののショックを、うまく表現する手段が、デンジには見つからなかった。
 ただ一つ、わかったことがある。
 コウキはデンジには何一つ教えなかった。
 何一つ、デンジはコウキのことを、知らなかった。

 それから一月の間、デンジは悩み続けた。

 どうしてコウキがデンジにそれを告げなかったのか、その理由を知る術はない。
 本人を捕まえて聞こうにも、その居場所さえわからない。
 チャンピオンからして、デンジに会いに来た理由は、足跡を絶った幼いトレーナーの姿を探してのことだった。
 コウキがどこに行ったのか、どこに行くのか。
 コウキ自身に聞けば、教えてくれたかもしれない。けれどデンジは尋ねなかった。
 必要ないと、そう思っていたのかもしれない。
 コウキは必ず、帰ってくると。
 そう、思っていたから。

 コウキにとってのデンジは何なのか。胸の裡に生じたその問いは、デンジ自身に、もう一つの問いをもたらした。
 デンジにとってのコウキは、何なのか。
 どろりとした泥濘だったはずのそれは、熾き火のように、くすぶる。焦がす。
 焦がれて、焦がれて。

 ただのトレーナーとジムリーダーとしての関係、というのには、親密すぎる時間を過ごした。
 年の離れた友人。そう称することも出来たかもしれない。
 けれどデンジ自身の中で、それは違う、と、叫ぶ声がある。
 それを望んだわけじゃない。
 触れる指先に流れる電流を、そんな言葉では説明できない。
 それこそが答えだと気付くのに、それを認めるのに、一月、かかった。

 コウキがどこに行ったのか。
 デンジには、ひとつだけ、心当たりがある。

「とてもとても、きれいなところを知ってるんです」
 いつか、静かな夜に、コウキはそんなことを言った。
「いつもは霧に閉ざされているんですけど、びっくりするくらい水が澄んでいて、深くて――きれいな泉」
 夢見るような瞳。きっと彼にとっては大事な場所なんだろう。
 月明かりに白く浮かぶ笑みを見て、デンジはそのとき、そう思った。
「大切な友達が、そこに住んでいるんです」
「へえ」
「あんまり人には会いたがらないんですけど……でもきっと、デンジさんなら大丈夫だと思う」
 デンジの手を握って、祈るように、彼は。
「いつか、デンジさんと一緒に、そこに行きたいな」
「……ああ」

「行くか」
 決めてからは、早かった。
 その場所を割り出すのには、それなりに骨を折った。泉なんていうのはいくらでもある。
 チャンピオンに連絡を取り、心当たりを尋ねた。彼女はもう調べたけれど、と、その場所を教えてくれた。
 普通の手段では行けない。そう言われたところで、意志が変わるわけでもない。
 待つのは本来、性に合わない。

 霧深い森の奥、木々の中に隠された道を、レントラーの瞳が透視する。
 先行する相棒を辿り、露に濡れた下草を踏みつけ、高い崖を上る。
 そうして、デンジはその場所に至った。
 白くけぶる泉のほとり、群れ咲く花の中。見慣れた肢体が、うつぶせて倒れている。
「コウキ……!」
 デンジは早足に、そちらへと近づいた。
 膝をついて、力なく横たわる、少年の肩を揺さぶる。
「コウキ!」
(まさか、)
 あまりの反応のなさに、ひやり、と、心臓の底が冷えた。
 震える指で、まろい頬に触れる。外気にさらされた滑らかな皮膚は、恐ろしく冷たい。
 それでも。
「息は、してる」
 それを確認して、デンジはほっと息をついた。
 何が起こっているのかはわからない。けれど、とりあえず、最悪の事態ではなかった。
 やわらかな安堵を噛み締めながら、デンジは隣に寄りそうパートナーを見上げた。
「レントラー、とりあえずコウキを連れて帰るぞ……レントラー?」
 デンジのパートナーは、歯をむき出しにして、何かを警戒するように低い唸り声を上げていた。
 その視線の先を追う。
 そして、目を見開いた。

 花畑の向こう、岸壁の虚ろに差し伸べられた桟橋。先ほどまで気付かなかった気配が、濃く立ち込める。
 橋の向こうに佇む、巨体。黒い翼が六枚、太い背から禍々しくはためく。
 その生き物は。
「ギラティナ……」
 まるで影のようなその名を、デンジは呟いていた。
 ギラティナは赤い瞳で、デンジと、デンジの腕の中の少年を睥睨し――ふと、その視線が、別のほうへと逸れる。
 デンジはその先を追い、そして、息を呑んだ。
 同時に、少年が眠り続けている理由を悟る。
 今のまま、彼を連れて帰ることは無意味だと。
 細く、薄い身体を、抱き締める。幼い身体はくたりと、デンジの腕の中に納まった。

 深く青い水面の上、佇む灰と赤の生き物に向かって、デンジは告げた。
「そいつを返してほしい」
 腕の中に抱いた体温は仄かだが、だからこそまだ希望はある。それにすがるしか、デンジにはなかった。
 ふたつの視線の先、淡い靄に包まれて、腕の中のこどもと全く同じ姿をした少年が、中空に佇む生き物の尾にもたれかかって眠っている。
「オレには、コウキが必要なんだ」
 ギラティナは沈黙したまま、自らの守る少年と、デンジを見比べる。
「頼む、ギラティナ。……コウキを返してくれ」
 コウキが友達と呼んだその大いなる生き物に、彼は懇願した。
 ギラティナはやがて、小さく溜息をつくように目を伏せ、低く金属の軋むような声で、鳴いた。
 かと思うと、その巨体を翻し、深い淵の底へと、音もなく潜っていく。
「ギラティナ!」
「……う、ん?」 
 デンジが叫んだのと、彼の腕の中の少年が身じろぎしたのは、ほとんど同時だった。
 息を呑んで見守るデンジの前で、ゆっくりと長い睫毛が震える。
 白いまぶたの下から現れた、見慣れた灰色の瞳が、デンジの姿を映した。
「デンジさん?」
 怪訝そうな、子どもの甘い声。望んだ響きを閉じ込めるように、デンジは細い肢体を抱く。
「ちょ、どうしたんですか?」
「コウキ」
「はい?」
「コウキ、好きだ」
 デンジの腕の中で、少年の体がびくりと跳ねる。
「デンジさん……?」
「答えなくていい」
 でも今はこのままで。
 そう囁いたデンジに、少年はしばらく困惑していたが。

 やがてゆるゆると背中に回された二本の腕に、デンジは小さく、溜息をついた。