鋼色幻影
その場所に少年が迷い込んだのは、ただの偶然だった。
何の変哲もない泉。その奥にひっそりと口をあけた、小さな洞窟。
旅路を共にするリオルを連れて、そこへと足を踏み入れたのは、若さゆえの好奇心のせい。
暗闇の奥からやってくる、ひんやりと肌を撫でる湿った風が、一瞬にも満たぬ違和感の後、向きを変えた。
そうして気が付くと彼は、そこに居たのだ。
目に見えるものが幻、見えないものが現実になる奇妙な世界。
遠く近く渦を巻く、消して触れられぬ暗色の雲。ねじれた大地。
その光景は、彼が今まで見てきたどんな場所とも、その様相を異としていた。
「……ここは、一体……」
高い声が不安げに揺れる。少年の胸には早くも、無謀な好奇心への後悔が訪なう。
彼の足にしがみついて、不安げな顔で辺りの様子を窺っていたリオルが、ふとぴくんと耳を立てて、ある方向へと視線を移した。
「どうした?」
少年もそれにつられて、リオルの赤い双眸の見つめる先へと顔を向ける。
溯る滝の下、白い光が、彼らの足元に灯っていた。
「……行ってみるか」
もしかしたら、出口かもしれない。そんなわずかな希望にすがり、少年は、震える足を叱咤し、一歩踏み出した。
やがて少年は、その白い光のもとに、小さな人影があることに気が付いた。
その人影が、少年と同じか、それよりもやや幼い少年だとはっきりわかるころには、相手もこちらの存在に気が付いた。
自らに近づいてくる少年のことを、ひたと見つめる双眸は、やけに静かだ。
「……きみは?」
少年が口を開くよりも早く、相手がそう尋ねてきた。その幼げな姿に似合わず、声は低く、しゃがれていた。
「ぼくは、ゲン。こっちは、リオル」
少年が名乗ると、相手は小さくうなづいた。
「ゲンか。……なんで、ここに?」
「わからないんだ。気が付いたら、ここにいて」
「……迷子か」
彼は再び頷くと、左手で、彼の背後の白光を示した。
「この向こう側に行けば、たぶん、きみのもともといた世界に帰れるはずだ」
「本当?!」
「たぶん、だよ。……きみはまだ、生きている人のようだから」
少年は思わず、自分の足元にすがりついているリオルと、顔を見合わせた。
それからもう一度、白光を背負う少年に、視線を戻す。その顔には、疑惑の念がはっきりと表れていた。
「……ここはいったい、なんなの? すごく、その……変なところ、みたいだけど」
あたりを見回しながら、少年が尋ねると、相手は厳かに、こう答えた。
「誰もがいずれ来る場所だよ」
「きみはどうして、ここに?」
「ここにいなければ、いけないからさ」
何でもないことのように、相手の少年はそう告げた。
少年は顔をしかめる。
「……ずっと、ひとりで?」
その問いに、相手は、しばらく考え込むように沈黙した。
「……そうだなあ。そうともいえるし、そうじゃないともいえる」
「……寂しく、ないのか?」
曖昧な返答に首をかしげながら、少年がさらにそう聞くと、相手は、たまにはね、と、言葉少なに肯定した。
「きみはそこから、出られないのかい」
「まだ、駄目だな。……今出たら、向こう側の世界をゆがめてしまうから」
「いつになったら、出られるんだ?」
「もうじきだよ。でもまだ、今は駄目」
相手は少し困ったように微笑んで、それから、少年に、この場を早く去るように促した。
「ここは普通の人がいるべき場所じゃない」
「……ぼくがきみにしてあげられることって、何かない?」
そう尋ねながら、少年はなぜ、自分がこれほどまでに、目の前の相手に興味を惹かれるのか、内心不思議に思っていた。
それは相手も同じだったようで、少年の申し出に、少しきょとんとした様子を見せる。
「どうして?」
「わからないけど、何かしてあげたくて。……きみがそこに居てくれなきゃ、ぼくはずっとここで彷徨っていたかもしれないし」
これも縁だろう? 少年の答えに、そういうものかな、と、相手は首をかしげた。
「……そうだなあ」
相手の少年は、少し考え込むように、視線をうつむける。逆光のせいで、はっきりとは顔がわからなかったが、少年は何故かどこかで、彼のことを知っているような気がした。
「……じゃあ、次に、ぼくがきみと逢えたときに、もしきみがそのリオルのタマゴを持っていたら、それをぼくに譲ってくれないか?」
「えっ? ぼくはいいけど……」
無理にとは言わないけど、と相手が付け足したのに、少年は少し困惑しながら、相方へと視線を向けた。
いいか? そう尋ねると、リオルは迷わずに頷く。
「リオルも、いいって」
「そうか。……ありがとう」
じゃあこっちへ。そう言って、白光を浴びる少年は、リオルを連れた少年へと手を差し出した。
吸い寄せられるようにその手を取って、光の中へと踏み出す。
「気を付けて、ゲン。きみはこちらに惹かれやすいみたいだから」
「えっ?」
「また、どこかで」
別れ際、一瞬だけ見えた少年の瞳は、きれいな鋼色をしていた。
***
懐かしい夢を見た。
どうして今まで忘れていたのだろうと思うくらい、鮮烈な。
「ゲンさん?」
起きたんですか、くぐもった高い声が、腕の中で響く。
そのあたたかさを抱き寄せて、彼は静かに、唇を持ち上げた。
「気付くのが遅くなって済まない。……私はきちんと、約束を守ったよ」
「え?」
「覚えていないなら、いいんだ」
不思議そうな顔をする少年の額に唇を落として、彼は囁いた。
「どうして私は、君にこんなに惹かれるんだろうね。……見つけられて、よかった」
「ゲンさん?」
不可解な男の言動に、無垢な鋼の瞳が、ゆっくりと瞬きする。
「何の話です?」
首をかしげるコウキに、ゲンは甘く微笑んだ。
「昔も今も、私はずっと、君のことが好きだって話さ」