輪列
それは、昔、昔の話。
はじまりの英雄がまだ、生きていた頃の物語。
争いに朽ちた聖域を守るために、ふたごの片割れは決めた。
夢と現の狭間を生きて、その聖域の番となろうと。
四人の乙女と一人の子供が、それに従った。
今は遠い、昔の話。
輪列
お前か。
いつか来るとは思っていましたよ。ええ、そこに座りなさい。
ワタクシに聞きたいことがあるのでしょう。
そう、たとえば、白いドラゴンを連れた英雄の行く末など。
そんなに怖い顔をしなくてもよろしい。どうせワタクシは――いえ、この世界の誰も。
もう彼に手出しなど出来ないのですから。
ほう、ここに来る前に、彼の故郷を訪れた、と。
そしてあれを見たのですね。
あんなものには意味はない。忘れてしまいなさい。
そうですね、ひとつ昔話をして差し上げましょう。
なに、それほどはかかりません。こんなところまで来るほどですから、どうせ時間はあるのでしょう。
それでは、物語を始めましょうか。
ワタクシはかつて、一つの種を撒きました。
それが芽吹いたか、否か。確かめに、このイッシュへと、戻ってきたのです。
結論から言えば、その種は、芽吹く前に消えていました。
その痕跡も残さずに。
ええ、驚かなかったといえば嘘になります。
その種はまだ若く、育つ土壌にも恵まれていた筈でした。
まさかそれ自身の中に、自らを蝕む毒を飼っていたとは、さしものワタクシも知りませんでしたが。
何、ワタクシが嘘を言っていると?
残念ながらと申しますか、今のワタクシは、何一つ偽りは口にしていません。
信じられないというのなら、それはそれで好きにしなさい。
ただ、それでいかなる後悔をしたとしても、ワタクシは責任は取れませんが。
それでよろしい。それでは、話を続けましょう。
ワタクシはいささかの失望を覚えながら、この土地を離れることにしました。
あれから年月が経っているとはいえ、この顔は知られすぎていましたからね。
地下鉄に乗り込み、別の土地を目指すことにしました。
あれはライモンシティだったでしょうか。話しかけてきた、一人の若者がおりました。
不思議なことにその時、車両の中には、ワタクシとその若者の、二人しか乗っていませんでした。
若者は言いました。
「あんた宛てに、預かっているものがある」
ワタクシは不審に思いました。何故ならワタクシは、その若者のことを、ちっとも知らなかったからです。
若者は、どこか不機嫌そうに、ひとつのモンスターボールをワタクシに差し出しました。
蓋越しにその中身を知ったときの、ワタクシの驚愕は、きっと言葉には出来ますまい。
「アナタはこれを、どこで手に入れたのです」
ワタクシは若者を詰問しました。
若者は答えました。
「あんたがよく知っている相手から」
「……そんな筈はない」
ワタクシが知るそのポケモンの主は、間違っても、ワタクシにそれを託す筈がない。
けれど若者は、それは間違いなく、ワタクシに宛てて預けられたものだ、と言い張るのです。
青い瞳の若者は、ワタクシを睨みつけて、告げました。
「あんたのやったことを、あたしは許さない。でも、彼はあたしとは違うから」
燃えるような憎悪が、若者の体から発されているのが、ワタクシにはよくわかりました。
若者は続けてこうも言いました。あたしから彼を奪ったのは、あんたたちだ、と。
それはどういうことか、ワタクシは尋ねましたが、若者はとうとうそれには答えませんでした。
これがその時、ワタクシが、その若者から預かったポケモンです。
そうですか、お前は、これの気配を頼りに、ワタクシを探し出したと。
そんな気はしていました。というより、お前が現れたときに、やっと気がついたと申しましょうか。
彼は本当に、性格が悪い。
このポケモンはお前に返しましょう。そうしてここを立ち去るといい。
きっと彼はそのつもりで、ワタクシにこれを託したのでしょうから。
ワタクシの撒いた種ですか? そうですね。
新しい世界を作るための、一つの手段、とでも、申しましょうか。
今ではもう、虚しい限りではありますが。
何ですか。まだ、ワタクシに何か聞きたいことが?
ふむ。何故ワタクシが、こんな場所にいるのか、と?
ごらんなさい。
その通り。ワタクシはもう、長くはない。
彼はいつこれを知ったのやら。英雄というものは、恐ろしい。
そうですね、お前に一つだけ、忠告しておきましょう。
この血を、絶やすも残すも、お前の自由。
けれどお前は忘れてはならない。
このハルモニアの血族が、どれほど呪われた運命を背負っているのかを――
***
「ここにいたのか」
白と黒の螺旋を描く木の傍に佇む小柄な影に、長身の青年が話しかけた。
青年のどこか切羽詰ったような様子に、小柄な影は、口元に小さく笑みを浮かべる。
「ゲーチスに会ったんだね」
「……キミのお陰でね」
青年は、小柄な話し相手の、目深に被ったフードを、震える手で取り去った。
その下から、まだ幼さを残した少年の顔が現れるのを確認して、薄い唇を引き結ぶ。
少年は凪いだ瞳で、慈愛に満ちた表情で、青年に微笑みかけた。
「ひさしぶりだね、N」
「……どの口がそれを言うんだ」
トウヤ、と、咎めるように睨まれて、少年はその表情を、僅かに苦笑のほうへと傾ける。
「ボクに気付いていて、それで知らないふりをしていたのか」
「いや、まさかきみが気が付かないとは思わなくてさ」
面白かったからついほっといてしまった、トウヤは喉奥で笑う。そうして言った。
「ぼくのあげたCギア、役に立ったろう?」
Nは鼻白んだように、顔をしかめた。きみは表情が増えたねえ、そんなことを言って嬉しそうにしているトウヤは、Nの態度とは裏腹に、とてものんきそうだった。
「カノコタウンに行ったよ」
「そう」
Nの言葉にも、彼が期待していたほどのたいした反応は見られない。
皆元気だった? 尋ねるトウヤの口調は、まるで世間話でもしているようなそれだ。
「ああ、……たぶん」
「たぶんって、なんだよそれは」
Nが不可解そうに自分を見ているのに気が付くと、トウヤは肩をすくめた。
「今更どうしようもないことだ。きみが、そんな顔することじゃない」
「トウヤ、キミは――」
尋ねかけたNの唇を、トウヤが人差し指で押さえる。
「この場所ではそんなことには、意味なんかないよ」
Nは眉を寄せ、自分の目の前に差し出されているトウヤの手首を取った。
折れてしまいそうなほどに細いそれを、握り締める。
「……どうしてキミなんだ」
トウヤは首をかしげた。心底不思議そうに。
「N、きみは、他の世界も見てきただろう?」
「だから言っている。……どうして、この世界では、キミが選ばれてしまったんだ」
「ぼくがそれを望んだからだよ」
トウヤは、Nに取られたほうの手を、そのままその頬へと伸ばした。
人形のような白い肌を撫でながら、トウヤは幼子に言い聞かせるように、ぼくが望んだんだ、と繰り返す。
「ぼくが望んで、ぼくはここにいる。Nがそうであるようにね」
「……トウヤ」
「それに、夢の番人って言うのも結構楽しいもんだよ」
に、と笑う少年は、かつて彼らが対立していた頃と変わらないままの姿で。
Nはつかんだままだった手首を解放して、自分の頬に触れる手の温度を確かめるように、その手を重ねた。
「後悔はない、と」
「うん」
「ここから長い間、もしかしたらそれこそ永遠に、出られなかったとしても?」
トウヤは、迷わず肯定した。Nはどこかやりきれない気持ちで、続ける。
「レシラムは悔いていたよ。自分が選ばなければ、こうはならなかったかもしれない、と」
あいつは真面目だからなあ。トウヤはそう、苦笑するだけだった。
彼が受け入れてしまっているのだという事実を、しかし、N自身は受け入れられない。
「同じことはボクにも言える」
Nはそして、断罪を待つように、目を伏せた。捕らえたままの手のひらの温度は、Nのそれよりもずっと、温かい。
「出会わなければ、キミは」
その言葉を最後まで、彼が口にすることは叶わなかった。
ぐい、と頭を引き寄せられて、Nの唇に柔らかいものが重なる。
驚いて思わず目を開けた彼の視界に、どこか苛立ったような顔のトウヤが大きく映った。
「そんなこと言うな」
「どうして。……どうして、キミはそうやって、ぼくを許そうとする」
Nは戸惑いながら、わからない、とかぶりを振る。ああもう、と呻いて、トウヤは真っ直ぐにNを見つめて、告げた。
「ぼくがきみを好きだからさ」
トウヤの言う意味がわからず、Nは首をかしげる。
「好き?」
呆れたような溜息をついて、トウヤはNの手を振り払い、距離を取ろうとした。Nは咄嗟に細い肩を掴み、それを引き止める。
捕らえられたトウヤは、咎めるような視線を、Nへと向けた。
「好き、って、どういうことだい」
「……きみは変わったなと思ってたけど、そうでもなかったみたいだね」
トウヤは諦めたように、再び、緩く笑みを浮かべた。どこか突き放したような物言いに、まるで線を引かれたようだと、Nは感じた。
「もう帰りな、N。きみにはきみの、行くべきところがあるだろう?」
「ボクの話は終わっていない!」
Nは無意識の内にトウヤの肩を捕らえた手に、力を込めた。その言葉を引き取るように、少年は頷く。
「そう、きみの物語はまだ終わっていない」
トウヤは真っ直ぐな瞳で、Nを射抜いた。あの日玉座の間で見せたそれよりも、ずっと静かで、鋭利なそれで。
「行くんだ、N。ぼくは過去だ。……疾うに過ぎ去った、過去に過ぎない」
気が付けば少年は、Nの手の中をすり抜け、元のようにフードを被って、静かに木の傍に佇んでいた。
移動したのは自分のほうだ、Nはそう気が付いて、唇を噛む。
「トウヤ」
呼びかけに答えはない。
それでも、Nは、彼へと告げる。
「また、会いに来るよ」
少年は。
黙ったまま、それでも確かに、手を振った。
Nは泣きそうな笑みを浮かべて、それに背を向ける。
かつて父と仰いだ男の言葉が、甦る。
ハルモニアは中心にはなれない。王であるからこそ、もっとも大切なものからは、手を離さなければならないと。
それこそが、もっとも大切なものを、守る手段なのだと。
それでも。
自分をやさしく受け入れる笑顔が。
温かい体温が。
墓標に刻まれた名のように、胸の奥に焼きついて。
サヨナラ、とは。
Nにはもう、言えそうになかった。
***
青年の消えた場所を見つめて、トウヤはちいさく、ひとりごちた。
「だって知ってしまったものは、仕方ないじゃないか」
その瞳には二度と、この聖域からの出口は映らない。かつて何度も行き来したその場所を、恋しく思わないといえば嘘になる。
がさり、と、気遣わしげな物音に、トウヤは、森の影から覗く友達を振り返った。
「おいで」
微笑みかければ、彼らは次々と姿を現した。夢と現の狭間を共に生きると決めた、大事な大事な、仲間達だ。
彼らをここに連れてくることに、トウヤが抵抗しなかったわけではない。それでもトウヤが折れたのは、結局、孤独に生きることには、耐えられないとわかっていたから。
とりわけ誰よりも強硬に、ついてくることを譲らなかった、一番最初の友達が、そっと身体を摺り寄せてくる。
冷たい緑の鱗を撫でて、赤い瞳と視線を合わせた。心配そうにこちらを窺う細い面に頬を寄せて、トウヤは目を閉じる。
この場所を譲られるとき、先代の老人に残された言葉が、未だに耳に残っていた。
あらゆる孤独が、この場所には集まるだろう。
孤独は優しさを伴い、世界を満たしていくだろう。
その全てを。
「見送る覚悟を決めたから、ぼくはここにいる」
トウヤはねじれた大樹を見上げる。草葉を茂らせ、天を覆おうと枝を伸ばす、優しさを食べて育つ木を。
いつか届くだろうか。
この身勝手で、独りよがりな優しさが。
祈るように、呪うように、トウヤは呟く。
「まったく、ぼくたちは、ひどいいきものだ」