恋人はじめました

こいびとはじめました


 コウキはかわいい。異論は認めない。
 オレのコウキは、かわいい。

 告白はコウキからだった。三日前の話だ。
 ここ一番のバトルもかくやといわんばかりの気迫と決意を込めて、けれどそれには似つかわしくない恥じらいと、もっと甘い何かを含んだ声で。
 ナギサの海辺、沈みかけた夕日を横から浴びて、きらきらとした瞳で真っ直ぐにオレを見つめて。
「好きです。デンジさんが、一番」
 彼はその、ひとことひとことを、丁寧に口にした。赤橙に染まる空の下、その空の色にも負けないほど、頬をあかく染めて。
 正直な気持ちを言おう。嬉しかった。しかし、悔しかった。
 先を越された、と、思わずオレは呆然としてしまった。オレ自身にも思い描いていた手順とか何とか、そういうのがあった。
 こういうのは勝ち負けではない、と思う。でも、年上の矜持とか何かそういう、下らないものが、オレにも一応あったのだ。
 けれど、コウキの、ぎゅっと握り締めた手だとか、ふるふると震えている膝だとか、それなのにオレから目を逸らさない、逃げることを許さない視線の強さとか、そういうのの前では、全部吹っ飛んでしまった。
 コウキがかわいい。その気持ちだけに、脳が見事に占拠されてしまった。何かのネジが飛んだ。
 気がつけばオレは笑っていて、そのままコウキを抱き締めていた。
 マジかわいい。コウキかわいい。あの日は多分、それしか言ってなかった。
 オレ自身は告白しそこなったのだと、あとで気がついた。

 オレは密かに溜息をついて、にこにこと上機嫌に隣を歩く少年を見下ろす。
 今日もコウキはかわいい。昨日はオレが仕事で会えなかったから、今日が恋人になってから、初めて外で会う日になる。
 ポケモンセンター前で待ち合わせして、それから市場へ向かう。ムクホークでナギサに降り立った瞬間から既にはしゃいでいた今日のコウキは、いつもよりもおしゃべりだ。
 オレに会うのがそんなに嬉しかったんだろうか。楽しみだったんだろうか。そう考えると、顔が自然とにやけた。
(ああ、もう、かわいいな)
 理性がちょっと残念なことになっているのは、たぶん、仕方ない。恋は盲目というアレだ。オレは結構のめりこむタイプなのだ。
 時々身振り手振りを交えて、ここ最近あったことを話すコウキがかわいい。
 ポケモンセンターから市場まではそう距離はない。だから、コウキの小さな歩幅に合わせて、ことさらゆっくりと歩いた。少しでも長く、彼の声を聞いていたくて。
 オレも大概浮かれているんだな。それこそ恋を知ったばかりのお子様でもあるまいしと思うが、望みのないものと諦めていた、片思いの期間が結構長かったので、仕方ない。はずだ。
「デンジさん?」
 あんまりじっと見つめすぎたのか、コウキが、きょと、とした様子で、不思議そうに小首を傾げた。ああ、かわいい。じゃなかった。
「どうした?」
 尋ねると、コウキは、しばらくこちらをじっと見つめてから、いえ、とゆるくかぶりを振った。
「何か、ぼうっとしてるみたいだったので」
 ちょっと、ふてくされているようにも見える。その様子に、悪戯心が刺激された。
「ああ、あんまりコウキがかわいいから見とれてた」
 からかい半分にそう言えば、案の定、みるみるうちに、まろい頬が朱に染まっていく。
「な、なん、」
 ただでさえ大きな目をまん丸に見開いて、口をぱくぱくさせて言葉を失うコウキがかわいくて、いつものように、帽子ごと頭を撫でた。
「お前、ほんと、かわいいな」
 しかしそのほめ言葉は、彼のお気には召さなかったらしい。唇を尖らせて、眦を吊り上げる様子も、やっぱりかわいく見える。重症だ。
「で、んじさん、面白がってるでしょう!」
「いや、本気だって。コウキはかわいいぞ」
 さらにそう重ねると、照れたのか、彼は俯いてしまった。ちょっとからかいすぎたかと、ごめん、と謝りながら身をかがめ、顔を覗き込もうとすれば、小さな声が耳に届いた。
「だって、なんか、いつもと、ちがう……し」
 ぽつりと彼が、そう呟くのを聞いて、さすがにちょっと反省した。相手はまごうことなき初心者だった。
 でもその一方で、恋人になったんだがな、と思う気持ちも、ある。オレに近づくことそのものにも、慣れてもらわなきゃ困るのだ。
 しばらく彼の様子を見ながら、慣らしていくしかないんだろう。もとよりこの年齢差だから、とっくにその覚悟は出来ていたけど。
「いつもと違うオレは、嫌か?」
 そう問えば、ぴきーん、と、変な擬音が似合うくらいに、コウキは身体を強張らせた。
 そのまま動かなくなったコウキに、どうしたもんかと心配になってきたところで、突然、ぼすん、と身体に衝撃がかかる。
「コウキ?」
 いきなり横合いから抱きつかれて、びっくりした。なかなか普段のコウキらしくない行動だ。
 ぐりぐりと腹に頭を擦り付けられて、ちょっとコウキくん、嬉しいんだけど、ここ往来なんだが。別にオレは構わないけど。
 ここは抱き返すべきなのかと、腕を彷徨わせていると、突然コウキが、がばっと顔を上げた。
「ち、ちがいますちがいますちがいます!」
 さっきの拍子で、地面に落ちた帽子も気にせず、コウキはいきなり、そう叫んだ。
 オレはその、らしくない動きに、やっぱり結構びっくりしながら、細い背中にまわしかけた腕を止めて、コウキの言葉の続きを待った。
「嫌とかそんなんじゃないですから! 何かどきどきしておかしいだけですから!!」
 その声はやけに大きく、周りに響いた。でも、今のコウキには、そんなところにまわすような気持ちの余裕はないのだろう。
「落ち着け、コウキ」
 彼が何を言いたいのかは、今ので大体わかった。しかしこの先を、ここで聞くのはまずいと思う。主に彼の精神衛生のために。あとオレの理性も。
 多分コウキは今、他ならぬオレのために、普段の冷静さがぶっ飛んでるんだろうけれど、実は現在、わりと周囲の注目を集めている。
 恥ずかしがりや、というか変なところで常識的な彼が、あとで正気に返ったときに受けるだろう精神的ダメージを、想像するだにおそろしい。
 オレはコウキの肩をさすって、まあ落ち着け、と、再び声をかけた。そうして宥めるオレの顔も、にやけすぎて酷いことになっているんだろうけど。
「お前の気持ちはわかったから。いきなり驚かせて悪かった」
 不安そうにこちらを見上げる彼の頭を撫でながら、できるだけ優しい声でそう言ってやると、コウキは黙って、こくんと頷いた。そうしてまた、俯いてしまう。
「コウキ?」
 ふるふると肩が震えている。どうしたんだ、聞いてみると、きゅっと頼りなげにオレの服をつかんで、コウキは答えた。
「……すみません、ちょっと、恥ずかしくて」
「ああ……」
 冷静になってしまったのだ、と、その様子で悟った。思ったよりも早かった。
 とりあえず、彼の頭を引き寄せてから、見せもんじゃないぞと周囲を睨んでおいた。

 出がけにそんなことがあったせいか、コウキはぐるっと市場を見てまわっただけで、もういいです、と言い出した。まあ、もともと、普段からよく来てたから、今更珍しいものがあるわけでもないけど。
「じゃあ、うちに来るか?」
 いつもの流れで誘ってから、そういえば関係が変わったんだっけと気付いた。が、コウキの様子は普段と変わりなく、嬉しそうに、はい、と言っただけだった。
 それからの帰り道、妙にコウキが大人しかった。さっきのがよっぽど恥ずかしかったのか、少しだけ前を歩くオレの手のあたりを、視線がずっと彷徨っていた。
 突っ込んでやるのもかわいそうなので、当たり障りのない話題をいくつか振った。それでも、どことなく心ここにあらずといった様子だったので、本当に大丈夫かとちょっと心配になった。
 居間に通して、買い置きしてあったジュースを二本、冷蔵庫から出す。それを持ってまた居間に戻ると、コウキはソファにちょこんと座って、なにやらあたふたとしながらオレのほうに顔を向けた。
 挙動不審なコウキに、ジュースのペットボトルを渡す。ありがとうございます、と、いつものように礼儀正しく、コウキは軽く頭を下げた。
 オレの分のキャップを開けていると、なんだか妙に視線を感じる。
「こっちがいいのか?」
 コウキの苦手な炭酸だけど、と、差し出そうとすれば、違います、と、何故か赤面したコウキが首を振る。
 どうしたんだろう。
 何もないにしては、コウキは、じっとオレのことを見すぎている、気がする。こちらからも見つめ返すと、はにかむように笑って、さりげなく視線を逸らす。
 その違和感は、しばらくの間続いた。二人並んで、格ゲーの対戦をしてる途中で、その正体にやっと気付いた。
 ゲーム続行の選択画面で、休憩を挟もうと提案する。そして、ゲーム中もやっぱりどこかぼうっとしていたコウキに、ほとんど確信を持って、オレは尋ねてみた。
「もしかして、オレの手が気になる?」
「え?」
 コントローラーを取り上げて、小さい手を掴む。やわらかい、とは言いがたいが、傷だらけのその手が、トレーナーらしくて、オレは好きだった。
 コウキはおろおろと、オレに取り上げられた手と、オレの顔を見比べている。
 嫌がられてるわけじゃないな、と判断して、小さな指の隙間に、オレの指を通す。いわゆる恋人つなぎの形にしてやると、コウキはまた、固まってしまった。
 かと思うと、その大きな瞳が次第に潤んで、ぽろり、と透明な雫を落とした。
「こ、コウキ?!」
 慌てて手を離そうとすると、きゅっと握り返される。コウキはぽろぽろ泣いて、時折しゃくりあげた。
「ずっと、手、つなぎたくて」
 朝からあんなんだったし、、なかなか言い出せなくて、どうしようもなくて、でも一度気になっちゃうと、それしか頭に入らなくて。
 泣きながら、そう告白するコウキの姿に、オレは自分の鈍さを呪った。
「ごめんな」
 手をつないだまま、空いた腕で肩を抱き寄せる。すきです、すき、すき、と、くぐもった声で囁くコウキが、もう、本当にかわいくて、いとしい。
 まるい頭から、首筋まで、ゆっくりと撫でながら。
「オレも、コウキが好きだよ」
 ずっと言い損ねていたその一言を、ようやっと口にすると、細い肩が、大きく震えた。

 コウキはかわいい。他のやつはどうか知らない。オレの目には、世界で一番かわいく見える。
 こどもで、まっすぐで、たぶんこれが初恋で。
 照れ屋で、甘えるのが下手な、かわいいかわいい、オレの恋人。