Remember me

「許さない。何度月がその姿を変えても、何度春が巡っても、たとえこの世界が終わってしまっても」
 何かを待つように、さしのべられた橋の上、足下に波打つ清らな湧水に向けて、ひとつの影が呪詛を吐く。
 水面の下で静かな眠りにつく数多の影に、さらにその奥津城に佇む、今はもう命のない残骸に。
「許さない」

 波紋を描き、滴る言葉は蜜のよう。

 そうして彼は、赤い瞳を、ねじれた虚空に向けて開いた。

***

 今回は、随分と早くに訪れたものだ。
 そう思いながら、私は、いつものように、下りてくる――昇ってくる、その気配を待った。
 小さく、か弱い。怯えの気配を滲ませながら、それでも足を止めることなく、こちらへと近づいてくる。
 いつかと同じように、種族の異なる仲間たちを引き連れている。何度生まれ変わっても、同じようなやつらが、あれの傍には寄ってくるようだった。
 今回はどうやら、男として生まれてきたらしい。三度か、四度目ぶりか。どちらでも、私にとっては変わりのないことだ。
 私の目の前で咎人と戦い、それを下す。月の娘に促され、浮いた石を、踏みしめる。

 彼は、私を見上げる。
 私が、彼を見下ろす。
 磨かれた剣のような、澄んだ灰色。

 その瞳の色に、私は、かすかな昂揚を覚えた。
 生きている彼と会うのは、これが初めてだ。
「ギラティナ――」
 歪んだ空気は、驚くほど鮮やかに、彼の声を私に届ける。
 彼が呼ぶだけで、その名は、もっと美しい何かに変わってしまう。

 少年は少しだけ俯いて、赤い帽子のつばを引き下げた。
 ひとつ、呼吸。青の上衣に包まれた、細い肩が、上下する。
 そうしてもう一度、ギラティナへと、切っ先のような視線を向けた。

 王を測ろうとする、愚か者の瞳。

 戦いたい。戦いたくない。せめぎ合う二つの感情が、小さな身体に渦巻いている。
 いつもの彼ならば、その挑戦に、ためらうことなど無かっただろう。
 けれど、今の彼は、私の事を覚えていない。
 生きている彼には、私の事を思い出せない。
 それは、その少年の身体の、外側にある出来事だからだ。

 さあ、どうする?

 少年のあかい唇が、そっと息を吸い込む。

***

「はあ。それで」
「それだけです」
 ぼくの身体を抱き込んだデンジさんは、不満そうに、なんだそりゃ、と眉を寄せた。
 ぼくは苦笑するしかない。
「なんだもなにもないですよ。だってこれは、夢の話、なんですから」
 夢、ねえ。デンジさんは、何か言いたいことを飲み込むみたいに、綺麗な形の瞳を細めた。
「ずいぶんと、うなされてたけど」
「あんまりいい夢じゃなかったのは、確かです」
 怖かった。ディアルガと向き合ったときも怖かったけど、それとは全く違う意味で、怖かった。
 重ねた手のひらを握り込む。ぼくのそれより少し大きな手の、骨張った指先が、宥めるように、手の甲を撫でた。

 こうして彼の家に引っ張り込まれるようになってから、よく、夢を見るようになった。
 大きな闇に見下ろされ、ぎらぎらと光る赤い瞳だけが、爛々とその中で輝く。
 向き合う自分の姿はというと、今よりまだ、もう少しだけ、幼い頃のそれだ。
 何度も何度も、その夢は、同じシーンだけを繰り返す。
 身体の芯を突き上げるほどの衝動に、身体を支配されながら。

 絶対的な強者に対するおそれと――そして、どうしようもないほどの、よろこび。
 まるで、ボクという存在の、根幹を揺すぶられているような。

「怖いです」
 あれに応えたら、もう、ここにはいられない気がして。
 ぽつり、静寂に、そう呟くと、デンジさんは、天井を見上げるボクの視線を遮り、頬に一つ、キスをくれた。
「忘れたらいい、全部」
 今、お前がいるのは、ここなんだから。囁く声は、どうしてだろう、何かを怖がっているようでもある。
 顔中に落とされるキスを受け入れながら、ボクの思考は、するりと溶け出していく。
 それでも頭の奥からの囁きは消えない。
 ボクは何かを忘れていないか。
 何かを間違えていないか。

 デンジさんとこうして一緒にいると、やわらかくてあたたかい時間が、そういう自分の気持ちを、全部溶かして、流していってしまう。
 そのまま全部無くなってしまえばいいのに、儚い泡のように浮かび上がるそれを、止める術をボクは持たない。
「デンジさん」
 いくつもいくつも、軽いキスだけを繰り返すデンジさんの頬を捕まえて、唇を重ねた。
 驚いて目を見開く彼に少しだけ笑って、唇を触れあわせたまま、ボクは囁いた。
「……忘れさせて」

 身体をひっくり返されて、シーツに押しつけられて、それでも、瞼の裏の、赤い瞳は消えてくれない。
「コウキ」
 低くかすれたデンジさんの声。いとしくて、ずっとそばにいたいと思う、のに。

 どうしたら、この人のことばかり考えていられるんだろう。
 蒼の双眸に見下ろされながら、ボクは、少しだけ、泣いた。