零れる柘榴

 早朝の澄んだ空気を切り裂くような、耳障りな電子音にたたき起こされた。不機嫌になりながら、ナイトテーブルの上に置かれたポケナビに手を伸ばす。
 その画面を確認し、表示された名前の珍しさに、ミクリはふと、嫌な予感を覚えた。
 通話ボタンを押す。何かが浅く呼吸しているような音が、スピーカーから伝わる。
「もしもし?」
 返事がない。
「ユウキくん?」
 重ねて向こう側の沈黙に呼びかければ、震え、かすれた声が、弱弱しく囁く。
「ミクリさん、たすけて」
「どうしたんだ」
「お願い、助けて」
「何があった」  置かれている状況を尋ねても、助けて、の一点張りで、今一つ要領を得ない。彼は酷く混乱しているようだった。
 いつも落ち着き払っている、どこか大人びた少年の取り乱した様子にミクリが触れるのは、これが二度目だ。
 事情を聞き出すのを諦め、彼の居場所を尋ねる。泣いているのか、途中でしゃくりあげたり、ところどころつっかえる少年の言葉を、どうにかこうにか拾い上げて繋ぎ、ミクリは相手の現在地を割り出した。
 ルネからそう離れてはいない、浅瀬の洞窟。その近くにある秘密基地。
「すぐ行く。だから、そこで待っていなさい」
 電話を切る。それから再び電話をかけて、今日は急用で休む、とリーグに連絡した。

 彼が少年の秘密基地を訪れるのは、これが二度目である。
 そこでミクリが目にした状況は、彼のしていたさまざまな想定の斜め上をいくものだった。
 青いマットの上に座り込んだ少年は、上半身の服を脱ぎ捨てていた。というより、おそらく着られなかったのだろう。
 薄い白い胸の中心を背中まで貫いて、歪んだ四角形の赤い突起が、その体から生えている。
 こちらを見上げる潤んだ瞳の色は、鮮やかなルビーレッド。
「ミクリさん……」
v  それきり、少年は、こちらを見つめたまま黙り込んでしまった。
 ミクリは少年のそばに膝をつき、血の気の引いた頬に触れた。途端、ぴくん、と、骨ばった肩が跳ねる。
「いつから?」
「……昨日、ここで泊って、今朝、起きたらこうなってて」
 ユウキの受け答えは、先ほどよりも落ち着いていた。眉間に深い皺を寄せ、必死に何かを耐えているようだ。
「体の具合は?」
「少し、頭が痛いです」
「病院には」
「まだ」
 どこか熱に浮かされたような、ぼうっとした様子に、ミクリは渋面を浮かべた。
「すぐに行こう。立てるか」
「いやだ……」
「いやだって」
 ミクリの服の袖をつかんで、ユウキはいやだ、と幼い抵抗を繰り返した。
 その胸元で、赤い突起物がふわふわと光る。
「外が、怖いんです」
「怖い?」
「いろんなものが、見えすぎる……」
 視点が定まらないまま、ユウキの瞳が宙をさまよう。見るからに異様な様子に、背筋がぞくりとした。
 ミクリは少年の両頬を手で挟んで、強い声で呼びかける。
「しっかりするんだ。ユウキくん、何が起きてる」
「みんなの感情が、一気に、流れ込んできてて、」
 どんどんオレがたべられていく。ほろりと赤い瞳から、涙がこぼれた。
 その時やっとミクリは、ユウキの秘密基地の中が静かすぎるということに気が付いた。
 ユウキのポケモンたちは、ユウキのことをとても大切にしている。それなのに、今、この状況にあって、彼らの姿がどこにも見えない。
「こわい、怖いです、ミクリさん」
 かたかたと小刻みに揺れる体は、すっかり冷え切っていた。この格好では無理もない。
 ミクリは辺りを見回して、脱ぎ捨てられたジャケットを見つける。
「ユウキくん、とりあえず服を」
 羽織るだけでも、と、それを着せかけようとした。
 しっかりとした生地が、背中の突起に触れた瞬間、ユウキが高い悲鳴を上げて、その場に崩れた。
 ぎょっとして固まるミクリに、ユウキがひゅうひゅうと喘ぎながら、告げた。
「そこ、何か触るの、すごくだめ」
「……すまない」
 何かとても見てはいけないものを(あるいは聞いてはいけないものを)見てしまった気持ちになったミクリは、黙って顔をそらした。
 しかし、このままでは、問題は何一つ解決しない。
 どうしたものかと思案を巡らせるミクリに、ユウキは申し訳なさそうに、迷惑かけてごめんなさい、と頭を下げる。
「子どもがそんなことを、気にするものじゃない」
 ミクリは苦笑した。
「ご両親に連絡は?」
 その問いに、ユウキは難しい顔をして、かぶりを振る。
「今、パパとママ、ジョウトの親戚のとこに行ってて……そんなすぐに、戻ってこれない」
 それで自分のところに連絡が来たのか、と、ミクリはやっと得心がいった。
 この秘密基地を知っている人間は、それほど多くない。ユウキの隣人の少女とミクリ、そしてもうひとり、今はこの地方にいない男だけだ、と、以前少年自身から聞いている。そして、ユウキの年頃からしてみれば、この状態の自分を、そう年の変わらない少女に見せるのは、さぞかし抵抗があるだろう。
 しかし、どうしたものか。ミクリとて、このような状況に出会うのは初めてだ。
(だからといって、放っておく訳にもいかない)
 腹を括るしかないようだった。
 うなだれるユウキに、ミクリは提案した。
「きみが嫌でなければ、ルネにあるわたしの家までくるかい」
「え、でも、」
「ここからならそう距離もない。……どうだろう」
 少年はしばらく沈黙した後、こくりと頷いた。

 ユウキは、頑として病院に行くことを拒んだ。ミクリの家に来る途中、ルネのポケモンセンターの前を通っただけで、随分と酷い顔色になったのを見てからは、ミクリも無理強いはできなかった。
「たくさんの人やポケモンの感情に、呑まれそうになる」
 酷く痛むらしい頭を抱えて、ユウキはそう訴える。憔悴していく少年に対して、ミクリができることはほとんどなかった。
 一度往診を頼んだはいいが、やはり詳しい検査を、それなりの施設でしてみなければわからない、と言われた。
 ユウキはそれから、ずっとミクリの家にいる。

 ある晩、夕食の途中で、ユウキが言った。
「今日はアダンさんが来たよ」
「お師匠が?」
「顔を見に来てくれたんだって」
 ほんのりと、胸の突起が光っている。嬉しかったのだなと、それを見てミクリは察した。
 ユウキの胸を貫く異物は、どうもラルトスのツノやサーナイトの胸部突起に特性が近いらしい。
 人やポケモンの心が読めるというのも、彼らの特徴によく似ていた。
 それに気が付いてから、ユウキは自分の力のコントロールをする練習を始めた。エスパータイプに詳しいトクサネの双子とも、よく連絡を取り合っているようだ。
 ユウキがトクサネに近づくことはないが、練習はうまくいっているのか、ここに暮らし始めた当初よりも、随分と落ち着いた様子になってきている。
「オレのバシャーモたちも、元気そうだった」
 このままいけば、また旅ができるようになるかな。少しさびしそうに笑うユウキに、ミクリは微笑む。
「ああ。そのために、頑張ってきたんだろう」
 ポケモンの思念は、人間のそれよりも純粋な分、まっすぐに心に刺さる。ユウキはそれに耐えられなかった。
 ユウキは決してポケモンたちを嫌ったわけではないのに、あまり長い間一緒にいることができない。
 苦しむ彼らを見かねて、ミクリの師匠であるアダンが、ユウキのポケモンたちを、しばらくの間預かるということになった。
 ジョウトから帰ってきたユウキの両親には、ミクリが話を通した。両親は複雑そうな顔を見せたが、今のユウキを長距離移動させることも、ユウキとポケモンたちを引き離すこともできず、結果として、ユウキたちはルネに留まり続けている。
「しかし、きみがいなくなると、私は寂しいかもしれないな」
 ミクリの言葉に、ユウキは呆れたように言った。
「オレがここにいたら、ミクリさんのポケモンたちが出てこられないのに?」
「そう。悩ましいところだね」
 顔をしかめるユウキに、ミクリはくくっと喉奥で笑う。
「こんなふうに一緒に食事をとってくれる同居人がいなくなるのは、なかなか侘しいものだよ」
「ミクリさんぐらいかっこよかったら、お嫁に来たい人だっていくらでもいるんじゃない?」
「私が誰か一人のものになってしまったら、多くの女性たちが悲しむことになるからね」
 冗談めかした答えは、ユウキの嘆息を得た。
「またそんなことばっかり言って。知らないよ、年取ってからさびしくなっても」
 ミクリはユウキの胸元の緋に、ちらりと視線を走らせた。静かに沈黙するそれに、小さくため息をつく。
「本当にきみはつれない」
「自業自得」
 ぴしゃりと返されて、ミクリは肩をすくめた。

 それから二週間後、ユウキは再び、旅に出ることに決めた、といった。
 ポケモンたちに触れていても、もう大丈夫だから、と。
 いつのまにか増えていた彼の荷物を、あるいは処分し、あるいはまとめた。最初に戻っただけなのに、どこかがらんとして見える部屋に、ミクリはユウキという少年が、どれほど自分の生活に染み込んでいたかを知った。
 いよいよ次の朝には旅立つという夜、ユウキは、ミクリの寝室を訪れた。
「一つだけ、お願いがあるんだ」
 ここへ訪れたときと同じように、上半身をさらけ出した彼は、少しはにかみながら、自分の胸元の緋色の突起を示した。
「オレのここに、触ってほしい」
「……いいのか?」
 ユウキは、ミクリの家にいる間、ほとんどずっと、胸部と背中に穴の開いた衣服しか身に付けていなかった。
 何かがその突起物に触れると、体に何とも言えない刺激が走る、と、ユウキが言っていたからだ。
 それでも近頃は、ゆったりとした衣服からはじめて、異物がそれに触れることに慣らしていたが、それでもときどき、思いもよらない刺激を受けて、悲鳴を上げているのをミクリは目にしている。
 それを知っていたからこその反応だったのだが、ユウキは、こくんと、迷いなく頷いた。
 緋色の瞳が、まっすぐに、とまどうミクリの姿を映しこんでいる。
「ミクリさんがいい」
 勘違いしてしまいそうだ。その一言を、どうにかミクリは呑み込んだ。

 ユウキの手を引いて、寝台の上に座らせる。寝るために落としていた明かりは、普段よりも影を濃く見せた。
 手を伸ばし、少年の胸を貫くそれに、触れる。ユウキはじっと、ミクリの、幾分女性的ともいえる手に、じっと視線を落としている。
 それはなめらかな手触りをしていた。薄く、繊細なようでいて、意外としっかりとしている。
「ん……」
 ユウキが、くぐもった声を漏らす。気遣ったミクリが手を放そうとしたのを、一回り小さな手が押しとどめた。
「辛くはないから、ちゃんと聴いて」
 そのまま、ぺたり、と、先ほどよりも大胆に、突起へと手を押し付けられた。
 ゆっくりと、けれどたしかに脈動しているそれに、いささかならず困惑したミクリの視線を受けて、ユウキは気まずそうに言った。
「……気持ち悪い?」
 ミクリは、いや、と否定した。突起が淡く光る。けれどそれを打ち消すように、ユウキは頭を振る。
 小さな光はすぐに消え、ミクリはそれで、彼がミクリの感情を読もうとしたことに気付いた。
 これは最後の試練なのだな、とミクリは察した。触れた相手の感情を、読まないための試練。たとえユウキが、本心で強く、それを望んだとしても。
 その相手に、選ばれた。
 うっすらと微笑んで、ミクリは、空いている方の手で、自分の手をつかむユウキの手を包んだ。
「私がきみを気持ち悪いと思うことはないよ」
 とくりとくり、と、手の中で、温かな鼓動が響く。
 今、自分は、この少年の心臓に、直接触れている。

 しばらくして、ユウキは言葉少なに、ありがとう、といって、立ち上がった。
「また、会いに来る」
 そうして立ち去ろうとする彼を、ミクリは引き留めた。
「私の気持ちを、ずっと読んでいた?」
 細い肩が、びくりと揺れた。つくづく、嘘のつけない子どもだ。
 闇の中でも光る赤い瞳が、気まずそうに伏せられる。
「ごめんなさい。……でも、読んでたのは、最初の頃だけだ」
「さっきも見ただろう?」
 ユウキは押し黙った。畳み掛けるように、ミクリは尋ねる。
「それでも、私に会いにくるかい?」
 ユウキが息をのむ。口を開けたり、閉じたりして、――やがて、ちいさく、けれど確かに、その頭が上下した。
 それを見届けて、ミクリは嫣然と、微笑んだ。
「いいだろう、いつでもおいで。きみの覚悟が出来たら」

 顔を真っ赤にして、逃げるように立ち去った少年の後姿を瞼の裏に思い描きながら、ミクリは声をあげて笑う。
 美しいものを愛する彼が、炎のように揺らめくルビーを手に入れる日は、そう遠くない。